夢拾い日記

夢拾いしながら感じたこと、思いついたことを綴っています。

2024/0826 鬱のときは人目を気にせず自分のやりたいようにできる

最近は坂口恭平さんの本「その日暮らし」を読んでいる。家族や周りの人たちが教えてくれることがたくさんあると気付かせてくれる。まわりにいる人すべてが師匠。成長するための糧はいつもそばにある。日々を丁寧に生きればひとは自然と成長する。そもそも成長するとかしないとか、どうでもいいのかも知れない。日々変化していく。ただその日を暮らす。そんな本。

 

読んでいると静かに穏やかになる。こういうのが幸せだなと思うし、欲しかったのはこういう感覚だなと。落ち着く。ここにいるという幸せ。

 

坂口さんの著書を読んでいると自分と似てる部分がとても多くて驚く。彼はいわゆる「躁鬱」なのだけど(ご自身でもそう仰っている)、あまりに似通っているために自分もそうなのではないかと思う。とくに鬱の描写は自分と重なる部分が大きくて、いったん自分が鬱であるとして自身を振り返ってみたら、たくさんの気づきがあった。

 

躁鬱。躁と鬱。その字面も音も重苦しいので、躁ちゃん鬱ちゃんに変えてみる。いっそウッチャンソウチャンにするか。バラエティ感が出てきたぞ。笑

 

自分の中にウッチャンとソウチャンの二人がいて、ぼくの場合はそれが適宜入れ替わる感じ。自分がウッチャン鬱状態)のときはとかく社会性に乏しい。人と関わるのがとてもしんどい。だから外交的なことはソウチャン(躁状態)がやってる。

 

ソウチャンはある程度社交的なので、多くの時間をソウチャンとして過ごしてる模様。ただあんまりその状態が続くと疲れてきて、ウッチャンに強制的に切り替わる。俗に言う「落ちる」というやつ。こうなると誰とも会いたくない、何もしたくない状態になって何もできなくなる。

 

社会性の無さからこのウッチャンを悪者としてなんとかソウチャンに切り替えようと試みるも、そのこと自体に落ち込み余計にウッチャンの時間は深く長くなることが最近わかってきた。だから切り替わったのを感じたら何もせずただウッチャンのしたいようにさせる。

 

ウッチャンは何もしたくないやつだと思ってたらそうでもないらしい。ソウチャンに疲れて替わってすぐは基本休んでるものの、しばらくすると色々やりたがる。ただそれは人の目があるようなものは好まない。SNS投稿や人と何かをするみたいなのはダメで、自分の感性に任せて何かを作ったり楽器を演奏するのが好き。人の目を気にせず自分のやりたいようにできる。それはウッチャンの長所なのだった。

 

ソウチャンは社交性があるが故に人目を気にするところがあって、だから文章を読みやすく書くみたいなのは得意なのだけど、相手にわからなくてもいいから自分の書きたいように書くみたいなのはできない。気を遣いすぎるところがあって疲れやすいのかも知れない。

 

今日の文章はウッチャンが担当してるっぽいので少々分かりづらいかも知れないけれど、自分としてはスーッと書けた素直な文章かなと思う。

 

ソウチャンが良くてウッチャンが悪いとずっと思ってたから、落ち込んだときつまりウッチャンの時間をなんとか短くしようとしてきた。でも実はウッチャンは休息であり、自分の声を聞くのが上手なのだと気がついた。とても愛おしく大事な時間そして人格であると腑に落ちた今、ウッチャンでもソウチャンでもただそれを大切に過ごすようになった。

 

ここ二日間はウッチャンで過ごしてる。またちょくちょく書いてみます。

 

2024/0820 夢拾いの休日と柔軟剤のニオイ

今朝はひさしぶりの雨で夢拾いはお休み。最近休んでないなと思ってさっき数えてみたら、29日連続で夢拾いしておりました。自分にお疲れ様です。

 

もうすっかり習慣化していて、雨でも降らないと休まないようになってるので、たまに自分で休みつくるといいかも知れません。だけど「今日もなにか面白いものが落ちてるかも?」の興味の方が勝ってるので、なかなか難しそうではありますが。笑

 

これだけ連続でやってたのは、夢拾い2年目の時くらいでしょうか?そのころは意地になって、ムキになってやってたから「毎日やってやる」くらいの勢いがあったし、実際それくらいやってた。地球を汚す人、それに対して何もしない人(と思ってる人)たちに対する怒りが原動力。地球を汚すも何もしないも、どうやって分けてたのか今思えば不思議だけど、未熟さゆえの荒削りなエネルギーがあった。

 

怒りでやることは続かないと思い知って、それから今みたいな「楽しいからやる」スタイルへと変わっていったように思う。その楽しいも「あー楽しい!」から「なんか楽しいわ」へ、感情としては波の小さな凪の方向へと変わってる。今は「おもしろい」が強いかも知れませんね。おもしろくて楽しい。

 

話は変わりまして、メルカリで買ったヴィンテージのバンドTシャツ。状態は良かったのだけど、柔軟剤の残り香がなかなかキツくて。嫌いなニオイではないし、一度洗濯して天日干ししたから大丈夫かと思って、今朝着てみたところどうも具合が悪い。

 

着用してた午前中はぐったりで、違うTシャツにさっき着替えてみたら調子は戻りました。断言はできないけど、おそらく柔軟剤ではないかと。ニオイの問題、香害って言うんでしょうかね。そういうのってあんまり縁がなかったというか、飲食店で隣の人がニオイきつかったら嫌だなぁくらいのものだったのだけど、本当に健康を害する危険なものなのかも知れません。疑ってたわけじゃないけど、体験してみないと分からないこと。敏感な人にとってはなおさら大変でしょうね。

 

これだけ短時間でやられたので、鼻からだけじゃなく皮膚からの吸収も大いにありそうな感じ。とりあえず「洗濯→天日干し」を何度か繰り返してみます。ダメなら平気な人にあげるか。笑

 

メルカリのプロフィールや商品説明に「喫煙者いません」「ペットいません」そして「柔軟剤使ってません」と書いてあったりするのは、こういうことだったのか。ニオイって洗ってもなかなか取れないですからね。

 

それにしても、せっかくの夢拾いの休みに柔軟剤で調子が悪くなるとは、自分らしくていいなと思う。こうして書くネタにもなるわけで。

 

写真は、メルカリで買ったピンクフロイドのTシャツ。

 

2024/0819 夢を叶えようマウントと二種類の応援する人

夢拾い中に浮かんだこと、ちょこちょこ書いてみます。

 

◎「夢を叶えよう」というメッセージ自体、マウント臭がするもの多し

 

夢の叶え方みたいな本とか、夢を掴もうみたいな歌詞とか、夢に関するメッセージって相変わらず需要があるのか、世の中に溢れている気がする。

 

自分もそういう類のセミナーを受けたことがあるけど、いま思えばその講師が夢を叶えているかどうかは本人次第みたいなところがあって、本人が夢を叶えたと言っていればそれで成立するもの。

 

だからとても主観的なものだし、その方法が自分にも役立つかは甚だ疑問で、なんか叶ったような高揚感や叶えられそうな全能感が楽しかったのかなと、そういう場を離れてみて感じる。

 

「夢を叶えよう」という話を聞きに行く時点で、叶えた相手⇄叶ってない自分という関係性(認識)になる。そもそもそれが邪魔な気がするし、夢を掴もうとする行為自体がそれを難しくしているような気がする。

 

先に「叶った人」として振る舞うことで講師となり、叶えたい人が集まるからビジネスが成立する。だから、叶った風な客観的数字を用意すればいい。本を何冊出版したとか、◯百万の絵が売れたとか。

 

マウント臭がするから嫌というわけじゃなくて、叶えたい界隈の人々はきっとその臭いが好きなのでしょうと。講師と生徒、相互に依存しあって成り立っているのだけど、もうそういうのはいいかなと思ってる。こうして好きなように文章を書いてるのも、毎日のようにごみを拾うのも、日々夢が叶ってるだけのような気がするから。

 

夢の話が好きじゃないのは、目の前のことより大切なものが遠くにある、みたいなのが苦手だから。夢拾いをやってる人が、こんなこと言うのもアレだけど。笑

 

◎コロナを怖れている人の多くは、罹ったあとの諸々を怖れている

 

ワクチンがどうだとかコロナがどうだとか、そういう場から一歩引いて、いわゆる普通の人と話をすることが増えた。そこで感じたこと。

 

コロナを怖れている人の多くは、病気の症状よりも「会社に行けない」とか「予定をキャンセルせざるを得ない」みたいな、罹ったあとの対応を怖れているだけのように見える。

 

だから「うつされたくない」「自分が感染源になりたくない(そう思われたくない)」→コロナは怖い、という構図になってるのではないか。症状そのものではなく、罹ること(罹ったと扱われること)が金銭的、社会的なダメージとなる、それを怖れているだけなのでは。いわばこの社会システムゆえの恐怖。症状自体を怖れている人はほとんどいない気がする。

 

◎応援する人にも二種類ある

 

ありのままを、その本人の変化をも楽しんでくれる人。もう一つは、ある方向性を期待してそれを応援する人。

 

人そのものなのか、やってることを応援してるのか。後者はアドバイスという形でその期待を伝えてくる。

 

その期待を逸脱したときに、両者には大きな違いが現れる。アドバイスの多い応援者は基本的にノーセンキューです、最近は。

 

ぼくを通じて自分のやりたいことをやってるつもりだから、その「やりたい」を逸脱するとアンチに転ずることはよくある。あなた変わったね、みたいな。そりゃ変わるよね、人間だもの。笑

 

アンチもエネルギーだみたいな人もいるし、それを使うのも一つの手だけど、ぼくには合わない。小さくても純度の高い状態を保つ。それは夢拾いの活動にも表れてる。

 

◎曇りのない目

 

その前に、自分の目の前にある曇ったガラスを見る。その上で、拭くのか割るのか退けるのかを決める。

 

曇りを認識するプロセスを飛ばして、曇りのない目にはなれない。

 

◎〜があるのは人間だけ、〜なのは日本人だけ

 

みたいな言い方があるけど、正しくないよなといつも思ってる。〜なのは日本人だけ「知ってる限りは」もしくは「いまのところは」の注釈が必要だと思う。何にでも例外はあるわけで、〇〇だけと言い切るのは不正確で、あまりにも乱暴すぎる。

 

混沌としてるいまの世の中はとくに言い切りが多いから、読み手が気をつけていないと容易に持ってかれる。割り切れないこの世界を、割り切れたつもりになって偉そうなことを言うようになる。周りとの軋轢を生む。過去の自分がそうだったように。

 

「〇〇の9割は××」みたいな物言いも、まるで統計のように書いてるけど、逃げを意識した断言がほとんどだと思う。突っ込まれるとマズいから、言い逃れの1割を残してる。でもそういう本を読んでみると、あたかも100%そうであるかのような論を展開してて、いやはやタチが悪いなと。

 

よく読んでた自己啓発の本にはよくあったし、今も多くありそう。今ではタイトルを眺めてるだけですが。「不安だから言い切って欲しい」そんな読み手のニーズもあるから、どっちもどっちだろうけども。

………

 

写真は、ひさしぶりに作ったキリムのキーホルダー。空と太陽。

 

2024/0818 利き手の概念をなくす

ひさしぶりに左手にトングを持って拾ってみたら、めちゃ上手になってた件。

 

今朝の夢拾いで、ジャックダニエルヘパリーゼの空きビンを立て続けに拾った。そうなると結構な重さになりまして、トートバッグを持ってる左手がちょっとしんどくなってくる。だったらと、ひさしぶりに左右の手を入れ替えてみた。右手にトートバッグ、左手にトングを持って夢拾い再開。

 

ぼくにとって左手は利き手とは反対なのだけど、ごみを拾うのがめちゃ上手になってた。上手になってたというのは、過去にも結構試したことがあって、「左手も利き手と同じように使えるようにしよう」活動みたいなのをちょくちょくやっておりました。

 

元はといえば、キリムを織るときに両手を使う必要があったから始めたこと。左手で箸を使ったり、歯を磨いたり。夢拾いはやる回数も多いし、拾うという動作は無数にあるので左手のトレーニングに最適だったのですね。

 

そんな左手ブームを経て、左手で箸を使うのも上手になったし、トングでごみを拾うのも格段に上達しまして、いつしかブームも収束したわけです。

 

ちなみにですが左手で箸を使うとき、茶碗を持つ右手のサポートもすごく重要で、陰ながらいつも支えてる左手の凄さを思い知りました。役割が違うだけで、左手はすでに器用だったと知る。

 

さて話は戻りまして。ブームの終わりとともにほぼ右手で拾う、以前の生活に戻っていたのですが、今回ひさしぶりに左手で拾ってみて、その上達ぶりに自分でも驚いた次第。上達というか、これは本当に左手かと。笑

 

利き手じゃない方で拾ってる感じ、がんばってる感がなくなった。もう利き手と変わらない、当初のイメージ通りに左手は進化していたのですな。いやはや驚き。

 

吸いがらひとつを拾うにも、トングの先を地面スレスレまで持っていき、吸いがらの角度に合わせて手首を回し、程よい力加減ではさみ、袋まで持っていき放す。じつは結構難しいことをやっておりまして、これはロボットだったら相当複雑なプログラムだと思う。その難しい作業をほぼノーストレスでこなす。もはや左手だという意識もなく。

 

手はよくても、以前はからだの向きが右手仕様になってたのですが(右手を使いやすいように右半身、右足が前に出てる感じ)、それもなくなってた。それは和太鼓を打つようになったからかなと。大太鼓に向かってからだを平行にして両腕を均等に回すから、左右のバランスが取れてきたように思う。

 

さらに太極拳も大いに役立ってて、何をするにもまずは腰をその方向へ向ける。正面で相対する。いろいろやりすぎてて、どれがいいかはもはや分からないけど、きっとどれも役に立ってるのでしょう。笑

 

ギターも弾いてるし、どれをやってもどれも上達するようにできてる。ちゃんと基本さえ守れば。とくに姿勢。それが身に染みてきたからこそ、何を始めるにも、基本の姿勢はちゃんと見るようになった。そのおかげか上達もしやすいし、ケガも疲れも少なくなったような気がする。

 

左手が自由になってきて、ピアノやらドラムやら、やりたいことがさらに広がってきて収拾がつかなくなってきたけど、そのほうが自分らしくていいなと思ってる。なんでもやりたがり。ちょっとできることがたくさんあると、いろんな先生に出会えるし、それでまた上達する。

 

器用貧乏もそのまま底上げできれば、すべてが器用になる。いっそ器用長者になるのじゃ。笑

 

写真は今朝の、満タンのトートバッグ。

 

この夏最後の和太鼓演奏

今夜は薮田夏祭りで和太鼓の演奏をしてきました。この夏最後の演奏でしたが、その集大成としてこれまでで一番上手に打てた気がしてます。自分としては。笑

 

いやはや、めっちゃ楽しかった!!

 

こじんまりとした公園でまさに地元のお祭りという感じだけど、それがまた熱気があってとてもよかったです◎

 

薬師如来さんの前で演奏させてもらったのですが、如来さんも喜んでくれてた気がします。無病息災の、本来の祭りやなぁと感じました。祈りというかね。

 

和太鼓の体験教室も大盛り上がり!子どもたちが楽しそうですごく嬉しかったな^_^

 

この夏観に来てくださったみなさま、そして応援してくださったみなさま、ありがとうございました!

 

お次は10月の国民文化祭に向けて、みんなで練習に励みます。

………

 

写真は、おりんを演奏中の図。

 

どこかインディアンっぽいというか、アイヌっぽいというか。笑

 

 

2024/0816 広がる苦手意識をひっくり返す

さて明日は、薮田の夏祭りで和太鼓を打ってきます。この夏4度目で、この夏最後の演奏になります。とりあえずの打ち納め。悔いのないように、心を込めて打ってこよう。今年の初めに、自分がこうして和太鼓を、しかも大太鼓を打ってるなんて、誰が想像しただろうか。笑

 

自分が一番驚いてる気がするけど、でもよくよく振り返ってみると、大太鼓を打つ姿に憧れていたような気もするから、願った通りに叶ってるのかも知れない。本当の願いって自分でもよくわからんよね。想像を軽く越えてくるし、想像もしない楽しみがある。とりあえず、和太鼓のおかげで人生がより楽しくなったのは間違いない。

 

大太鼓はまさに「込める」という表現がぴったりで、心を込めて魂を込めて打てるのが自分には合ってるなと思う。歌でもそうだけど、入り込みすぎて、終わったあと抜け殻のようになるのはもうしょうがない。それだけ打ち込めるものに出会えた幸せ。

 

もともと打楽器に苦手意識があったのだけど、いま思えばそれはやったことがないから、だった。ゲームセンターに置いてた「ドラムマニア」という音楽ゲーム。曲に合わせて電子ドラムを叩くようなものだったのだけど、それが上手くできなかったから「もう苦手」ということになってたらしい。それが20年くらい前かな。

 

そのあとバンドのボーカルをやって、ギターも弾くようになったけど、ドラムをやろうとは思わなかった。でも練習の合間に8ビートを叩くような真似ごとはしてたから、やっぱり興味はあったんだなと思う。だけど苦手意識というのはなかなか根深くて、できない「テイ」で叩くから、できる範囲のことしかやらなくなってた。バンドのドラマーがいたわけで、聞けばよかったのにもったいないことしたなと。

 

ドラム苦手が今度は「リズム苦手」に変わってて、ギターのカッティングまで苦手だと決めるようになった。苦手意識ってどこまでも広がるのですね。できない!って思ってやるからやっぱりできないし、なんならできなくする方向にからだも動いていく。

 

リズム苦手と言いながら、歌は早いテンポの曲でも歌えるわけで、実際そんなことはなかった。苦手だと決めればやらずに済む、みたいなところがあったのかも知れない。弾けるようになりたいと言いつつ、弾かずに済むようにするって一体どっちやねんって感じだけど。アクセルを踏みつつブレーキも踏んでるようなことって、人生ではよくある気がする。

 

苦手と言いつつもあきらめが悪いのが功を奏して、細々と続けてきたギターのカッティング。過去の自分がまったく弾けなかったフレーズを、今の自分が弾けてるのを知るにつれて、続けたらできるんだなと、いつしか苦手意識は薄れていった。

 

ひとつできると「ほかもできるかも?」ってやるようになるし、やり方も考えるようになる。そうやってギターだけじゃなく、いろんな苦手をひとつずつひっくり返してるのが現在で、大太鼓もそのひとつだったわけです。

 

どこまでも広がる苦手意識も、ひとつできると「あれもできるかも?」ってやってみるようになって、またひとつひっくり返る。そうするとオセロのように、今度は全部が「できるかも」にひっくり返ってきた。

 

こうなると、初めてやることもできるような気がしてきて、とりあえずやってみるようになった。しかもできると思ってやるし、できる方法を考えながらやる。だからできるようになる。

 

できないのを無理に「できる!」って念じるような自己啓発じゃなく、「なんでもできそう」って感じの軽いノリですべてのものごとに接するといいんだなと思う。苦手はからだが緊張してる。できそうはゆるむ。

 

大太鼓のダダダダって左右の連打も、初めは不均等でリズムも揺れてたけど、やっていくうちにバランスがとれてきてる。前よりは粒が揃ってきた。やっぱりできるようになるし、整ってきた左右の手のバランスが、ギターを弾くときの左右の手のコンビネーションを向上させてくれてる。つまりは、大太鼓を打ってるとギターまで上手くなるという一石二鳥。

 

そうなると俄然大太鼓もやる気が出てくるわけで、もうとにかく目の前のことを真剣にやったら、なんでも全部が上達する。そんなゾーンに入ってきました。本来人間はみんなそうなんだと思う。

 

苦手意識という勘違いで、流れを堰き止めなければ、流れてさえいればきっとなんでもできる。何がやりたいかは個人差がありますけどね。

 

さて、なんの話だったか。笑

 

とにかく大太鼓は楽しい、ということで。明日も精一杯打ち込んできます。

 

2024/0815 拾ったスーパードライと夏の過ごし方

SNSの投稿でも少し触れたのだけど、今朝はアサヒスーパードライの未開封の缶を拾いまして。うちの親父といえばスーパードライというくらい、もはやイコールで結んでもいいほどに毎日飲んでいたのを思い出す。親父=スーパードライ

 

家に帰ってその缶を洗いながら母親と話してたら、そういえば父親の誕生日だ!ということで、綺麗になったスーパードライをそのままお供えしました。笑

 

先日も未開封のチューハイを2つ拾ったけど、スーパードライって初めてのような気がする。この9年間でも。なんといっても高級品ですからね。未開封で落ちてるのはいわゆるストロング系、安くて多いやつ。安いから捨ててもいい、っていう価値観が透けて見えるようでいつも面白い。

 

そんな初の未開封缶をよりによってこの日に、親父の誕生日に拾わせてくれるとは神様も粋やなと思う。どうせなら一番面白いところで、っていうユーモアを感じるよね。シンクロみたいなやつ。

 

先日拾ったジャスミンの茶のチューハイ。自分で飲んでみたけど、期待したほど美味しくなかった。香料っぽいのかな。拾ったものは、未開封だったら食べてみたりするのだけど、自分では選ばないようなものが味見できて面白いのです。自分の価値観の外側を垣間見える。あ、傷んでないかもちゃんと判断してますので、その辺はご心配なく。笑

 

さてさて。話は変わりまして、夢拾い中に浮かんだキーワードから。

 

◎クーラーとの付き合い方

 

なんか調子悪いなと思ったら、どうやらクーラーが良くないらしい。設定温度は比較的高めに設定して、冷えすぎないようにはしてるものの、からだが変に火照ってる感じがある。熱はもってるけど、表面は冷たいような感じ。

 

なので寝るときは極力クーラーは使わない、普段も少し冷えたらクーラーを消してあとは扇風機、みたいな暮らしに変えたら随分と良くなりました。寝起きなんかは汗だくだったりするけど、その方がすっきりする。汗がかけなくなってるから、体温調整ができなくなってる(調整幅が小さくなってる)のかも知れないですね。体温調整できないからクーラーに頼る→さらに調整が効かなくなる→クーラー、の悪循環。

 

外側に頼ることで、内側の機能が死んでいくパターンってよくある。エスカレーターに頼りすぎて、足腰が弱くなる。レトルト食品に頼りすぎて、料理ができなくなる。楽譜に頼りすぎて、自分の耳で聞き取れなくなる。最近気をつけてるのはそんなところ。

 

でもここまで暑いと、さすがにクーラー無しでは危険な場面もあるので、使わないというよりは使い方を考えていきたいですね。クーラーが無いと死ぬかも知れないって、よくよく考えてみると、とても不自然なことではありますが。

 

◎常温の水

 

ひと昔前は冷たい飲み物、しかもスポーツドリンクみたいな甘いものをよく飲んでたけど、最近では飲まなくなった。常温の水やお茶が主で、そうしてからも調子が良くなった気がする。クーラーの話と合わせて。

 

胃腸を冷やさない方がいいとはよく聞くし、常温の飲み物がいいと知ってはいたけど、実際にやってみないとわからないもので。

 

冷たいものを飲んだとき、その瞬間はからだは冷えたような気がするけど、ほんの一瞬。刹那な涼を求めて何度も口にするものの、その効果は持続せず。そしていつしかお腹を壊す。体力が落ちて風邪をひく。そんなパターンがよくあった。

 

ここからはぼくの仮説というかイメージですが、常温の飲み物にすることで、胃腸の中が冷えにくい。

 

冷たいものを飲んだとき、胃腸の中も冷える。でも消化のための酵素が働くためには温度を上げる必要がある。だから体温を上げることで、胃腸内の温度も上げようとする。だから冷たいものを飲み過ぎると、体感的には余計暑くなるのではないかと。

 

あくまで自分なりではあるけども、そう納得しながら常温の水を飲んでいる。そのおかげか、調子は良くなってきてる。常温だとそこまで量を求めなくなるのも不思議ですね。がぶ飲みしなくなった。

 

◎手持ち扇風機

 

ハンディファンともいう。夢拾いのとき、すれ違う中でこれ使ってる人は結構多いですね。早朝の涼しい時間帯でも使ってるのを見ると、もうクセになってるだけのような。今朝はハンディファンを片手に、人混みを走り抜ける男性を見たけど、なんか異様な感じ。

 

左手にハンディファン、右手にスマホでもう手がいっぱい、みたいな人もかなり見かけます。これにヘッドフォン、マスクまでした日にゃ、もう五感は無きに等しい。笑

 

単に年齢的なものかも知れないけど、うちわの方が風情があって好き。ハンディファンは充電がなくなったら使えないし、持ってる姿もしっくりこないので、使うなら「うちわ」か「扇子」かな。あんまり使わんけど。

 

新しいものへの拒絶感もあるかも知れないですね。受け入れられないものが増えていくたびに、自分も年をとったなと感じる。

………

 

写真は、今朝拾った未開封スーパードライ。親父しか思い出さない。笑