最近は坂口恭平さんの本「その日暮らし」を読んでいる。家族や周りの人たちが教えてくれることがたくさんあると気付かせてくれる。まわりにいる人すべてが師匠。成長するための糧はいつもそばにある。日々を丁寧に生きればひとは自然と成長する。そもそも成長するとかしないとか、どうでもいいのかも知れない。日々変化していく。ただその日を暮らす。そんな本。
読んでいると静かに穏やかになる。こういうのが幸せだなと思うし、欲しかったのはこういう感覚だなと。落ち着く。ここにいるという幸せ。
坂口さんの著書を読んでいると自分と似てる部分がとても多くて驚く。彼はいわゆる「躁鬱」なのだけど(ご自身でもそう仰っている)、あまりに似通っているために自分もそうなのではないかと思う。とくに鬱の描写は自分と重なる部分が大きくて、いったん自分が鬱であるとして自身を振り返ってみたら、たくさんの気づきがあった。
躁鬱。躁と鬱。その字面も音も重苦しいので、躁ちゃん鬱ちゃんに変えてみる。いっそウッチャンソウチャンにするか。バラエティ感が出てきたぞ。笑
自分の中にウッチャンとソウチャンの二人がいて、ぼくの場合はそれが適宜入れ替わる感じ。自分がウッチャン(鬱状態)のときはとかく社会性に乏しい。人と関わるのがとてもしんどい。だから外交的なことはソウチャン(躁状態)がやってる。
ソウチャンはある程度社交的なので、多くの時間をソウチャンとして過ごしてる模様。ただあんまりその状態が続くと疲れてきて、ウッチャンに強制的に切り替わる。俗に言う「落ちる」というやつ。こうなると誰とも会いたくない、何もしたくない状態になって何もできなくなる。
社会性の無さからこのウッチャンを悪者としてなんとかソウチャンに切り替えようと試みるも、そのこと自体に落ち込み余計にウッチャンの時間は深く長くなることが最近わかってきた。だから切り替わったのを感じたら何もせずただウッチャンのしたいようにさせる。
ウッチャンは何もしたくないやつだと思ってたらそうでもないらしい。ソウチャンに疲れて替わってすぐは基本休んでるものの、しばらくすると色々やりたがる。ただそれは人の目があるようなものは好まない。SNS投稿や人と何かをするみたいなのはダメで、自分の感性に任せて何かを作ったり楽器を演奏するのが好き。人の目を気にせず自分のやりたいようにできる。それはウッチャンの長所なのだった。
ソウチャンは社交性があるが故に人目を気にするところがあって、だから文章を読みやすく書くみたいなのは得意なのだけど、相手にわからなくてもいいから自分の書きたいように書くみたいなのはできない。気を遣いすぎるところがあって疲れやすいのかも知れない。
今日の文章はウッチャンが担当してるっぽいので少々分かりづらいかも知れないけれど、自分としてはスーッと書けた素直な文章かなと思う。
ソウチャンが良くてウッチャンが悪いとずっと思ってたから、落ち込んだときつまりウッチャンの時間をなんとか短くしようとしてきた。でも実はウッチャンは休息であり、自分の声を聞くのが上手なのだと気がついた。とても愛おしく大事な時間そして人格であると腑に落ちた今、ウッチャンでもソウチャンでもただそれを大切に過ごすようになった。
ここ二日間はウッチャンで過ごしてる。またちょくちょく書いてみます。