夢拾い中に浮かんだこと、ちょこちょこ書いてみます。
◎「夢を叶えよう」というメッセージ自体、マウント臭がするもの多し
夢の叶え方みたいな本とか、夢を掴もうみたいな歌詞とか、夢に関するメッセージって相変わらず需要があるのか、世の中に溢れている気がする。
自分もそういう類のセミナーを受けたことがあるけど、いま思えばその講師が夢を叶えているかどうかは本人次第みたいなところがあって、本人が夢を叶えたと言っていればそれで成立するもの。
だからとても主観的なものだし、その方法が自分にも役立つかは甚だ疑問で、なんか叶ったような高揚感や叶えられそうな全能感が楽しかったのかなと、そういう場を離れてみて感じる。
「夢を叶えよう」という話を聞きに行く時点で、叶えた相手⇄叶ってない自分という関係性(認識)になる。そもそもそれが邪魔な気がするし、夢を掴もうとする行為自体がそれを難しくしているような気がする。
先に「叶った人」として振る舞うことで講師となり、叶えたい人が集まるからビジネスが成立する。だから、叶った風な客観的数字を用意すればいい。本を何冊出版したとか、◯百万の絵が売れたとか。
マウント臭がするから嫌というわけじゃなくて、叶えたい界隈の人々はきっとその臭いが好きなのでしょうと。講師と生徒、相互に依存しあって成り立っているのだけど、もうそういうのはいいかなと思ってる。こうして好きなように文章を書いてるのも、毎日のようにごみを拾うのも、日々夢が叶ってるだけのような気がするから。
夢の話が好きじゃないのは、目の前のことより大切なものが遠くにある、みたいなのが苦手だから。夢拾いをやってる人が、こんなこと言うのもアレだけど。笑
◎コロナを怖れている人の多くは、罹ったあとの諸々を怖れている
ワクチンがどうだとかコロナがどうだとか、そういう場から一歩引いて、いわゆる普通の人と話をすることが増えた。そこで感じたこと。
コロナを怖れている人の多くは、病気の症状よりも「会社に行けない」とか「予定をキャンセルせざるを得ない」みたいな、罹ったあとの対応を怖れているだけのように見える。
だから「うつされたくない」「自分が感染源になりたくない(そう思われたくない)」→コロナは怖い、という構図になってるのではないか。症状そのものではなく、罹ること(罹ったと扱われること)が金銭的、社会的なダメージとなる、それを怖れているだけなのでは。いわばこの社会システムゆえの恐怖。症状自体を怖れている人はほとんどいない気がする。
◎応援する人にも二種類ある
ありのままを、その本人の変化をも楽しんでくれる人。もう一つは、ある方向性を期待してそれを応援する人。
人そのものなのか、やってることを応援してるのか。後者はアドバイスという形でその期待を伝えてくる。
その期待を逸脱したときに、両者には大きな違いが現れる。アドバイスの多い応援者は基本的にノーセンキューです、最近は。
ぼくを通じて自分のやりたいことをやってるつもりだから、その「やりたい」を逸脱するとアンチに転ずることはよくある。あなた変わったね、みたいな。そりゃ変わるよね、人間だもの。笑
アンチもエネルギーだみたいな人もいるし、それを使うのも一つの手だけど、ぼくには合わない。小さくても純度の高い状態を保つ。それは夢拾いの活動にも表れてる。
◎曇りのない目
その前に、自分の目の前にある曇ったガラスを見る。その上で、拭くのか割るのか退けるのかを決める。
曇りを認識するプロセスを飛ばして、曇りのない目にはなれない。
◎〜があるのは人間だけ、〜なのは日本人だけ
みたいな言い方があるけど、正しくないよなといつも思ってる。〜なのは日本人だけ「知ってる限りは」もしくは「いまのところは」の注釈が必要だと思う。何にでも例外はあるわけで、〇〇だけと言い切るのは不正確で、あまりにも乱暴すぎる。
混沌としてるいまの世の中はとくに言い切りが多いから、読み手が気をつけていないと容易に持ってかれる。割り切れないこの世界を、割り切れたつもりになって偉そうなことを言うようになる。周りとの軋轢を生む。過去の自分がそうだったように。
「〇〇の9割は××」みたいな物言いも、まるで統計のように書いてるけど、逃げを意識した断言がほとんどだと思う。突っ込まれるとマズいから、言い逃れの1割を残してる。でもそういう本を読んでみると、あたかも100%そうであるかのような論を展開してて、いやはやタチが悪いなと。
よく読んでた自己啓発の本にはよくあったし、今も多くありそう。今ではタイトルを眺めてるだけですが。「不安だから言い切って欲しい」そんな読み手のニーズもあるから、どっちもどっちだろうけども。
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写真は、ひさしぶりに作ったキリムのキーホルダー。空と太陽。