夢拾い日記

夢拾いしながら感じたこと、思いついたことを綴っています。

2024/0814 ダメにならないようにがんばるよりも

グループ展があったり、和太鼓の演奏があったり、慣れないお店に立ってたりと、自分としては忙しく過ごしてた先週。身体的というよりは、精神的に疲れてる感じ。自由にやってる風でいて、それなりに責任感はあったりするので、それで疲れちゃうのかも知れないですね。

 

やることの多い少ないというよりは「何かをやる」ということ自体が、頭に引っかかるというか、それを優先するようになるから、かも知れません。大事な何か。今やってるこれよりも、大事な何か。その準備や練習が気になって、他のことがおろそかになる。手につかない。

 

たとえば、待ち合わせが午後3時だとすると、それまではゆっくり好きなように過ごせばいいはずなのだけど、待ち合わせの時間が気になって、なんか好きなように過ごせない。何かあったらイヤだし、早めに出るとか。その日は待ち合わせを優先に生きるわけで、気もそぞろ。結局、それが終わるまでは精神的に束縛されてる感じになる。

 

予定の質にもよるし相手にもよるのだけど、遅れてもいい予定変更してもいいよと言ってくれるような相手なら、そこまで疲れないし、気楽に待ち合わせもできる。時間通りじゃなきゃ、という相手とは長くは続かないから、そもそも今周りにはいない。いなくなった。

 

こんななので、なにか予定を立てる、たとえばイベントを企画するなんてことにはごく慎重だし、そもそも極力予定を立てないようにしてるのだけど、大勢の人が関わってくるとそうもいかないので、その場合は厳選して予定を立てる。

 

自分が企画して集客してとなると、責任が大きすぎてすぐにフリーズするので、最近はやってません。やらないようにしてる。企画してくれる方がいて、それを受けての補佐くらいがちょうど良い。集客も自分のためだと上手くできないのだけど、だれかのためなら少しはマシにできる。

 

こういう自分の性質を知るほどに落胆してたのだけど、最近はその取り扱いがわかってきて、他人に迷惑をかけることが減ってきたおかげで、こんな自分がそこまでイヤじゃない。なんなら、長所として活かせるところまできてるかも知れない。

 

自分をダメだと思うとき、たいていはその取り扱いを間違っているだけで、そのダメな部分(ダメだと思う部分)をよく見て、ダメにならないような状況を用意してあげればいいのだと思う。ぼくの場合だと極力予定は立てない、みたいなこと。

 

それで上手くいくのかって自分でも半信半疑で、そんなんでやってけないよって思ったけど、とりあえず今生きてる。笑

 

予定が立てられないから、ほとんどイベントなんてできないけど、和太鼓なんて無責任に参加するだけだし、うちのお店でのグループ展でも責任の範囲は最小限にしてもらってる。そうやって気楽な状況をつくると、あら不思議、責任を果たすようになるのですね。この天邪鬼は。

 

ダメになるパターンを観察して、そうじゃない状況をつくる。それだけで自分が活きてくる。そんな感じです。ダメにならないようにがんばるよりも、ダメになる前提でそのシチュエーションを避ける。そこをがんばる。

 

写真は、新たに織りはじめたキリム(45×45くらい)自分勝手にできるから続いてる。笑

 

2024/0807 グループ展やってます

うちの喫茶店でグループ展を開催中です(今度の日曜まで)入場無料。コーヒーを飲みがてら、よかったら観に来てください^_^

 

LIfestyle  Design.Campアートグループ展

 

「うずまく青」

 

@喫茶 青い鳥

岐阜市神田町8−6 バードビル2F

 

会期中の営業時間 8:30~17:00(16:30L.O)

 

今週金曜はお休み。

 

 

たっくん(コドナの落書き)からのご縁で、LIfestyle  Design.Campのアートグループ展をうちの喫茶青い鳥で開催させていただいてます。出展してくださった方々は、ニュージーランド在住の執筆家「四角大輔」さんのオンラインサロンのメンバーだそうです。みなさんの作品を見てると、サロンの空気が伝わってきますね。自由でおおらかな感じ。

 

先日の搬入日には、遠くは北海道・新潟と全国各地から来てくださり、作品の設置とともにそのお話を聞けてとても楽しかったです。

 

木版画あり、写真あり、絵本あり、刺繍あり。そのほか、それぞれの表現が楽しめるグループ展になってますので、よかったら遊びに来てください。

 

うちは喫茶店をやってますが、ずっとこういうのをやってみたかったというか、うちの場所がなにかの役に立てばいいなと、ずっと思ってました。作品展示だったり、ワークショップだったり、あとはLIVEだったり。おかげさまで今回、作品展示の夢が叶ったわけです。うれしい。

 

ワークショップにも少しずつ使ってもらってますし、春には6弦ベーシストの服部龍生さんにもLIVEをしていただきまして、想いがかたちになっていくことがとても幸せなのです。みなさま、ありがとうございます。

 

うちの喫茶店は駅からすぐの好立地なので、自分だけで使うにはもったいないというか、せっかくならみんなで楽しく使いたいなと。今度はいろんな人が参加できる「オープンマイク」みたいなのができたらいいなと考えてます。とりあえずアコースティックなやつを。

 

みんなの表現の場、交流の場になれたらうれしいですね。合わせて自分にも無理がない(負担がない)形を模索していきます。つい犠牲になりがちなので。笑

 

グループ展の写真、店内の様子を何枚か貼っておきますね。少しでも雰囲気がお伝えできれば。

 

今回のグループ展に限らずいろんな人の作品を観てると、自分にはない発想ばかりで人間の面白さというか、可能性を感じます。その手があったかと思うし、きっと自分にもできるんやなぁと思うし。これやってみようと思ったり、こういうのが好きなんやなって自分を知る機会にもなる。

 

以前は「有名な人の作品を観る=鑑賞」のイメージだったけど、それよりも会って話が聞けるような身近な人の作品を観るのが、最近は楽しくなってきた。アートも音楽も。なんせ作り方も聞けちゃうわけで、そりゃ楽しくて仕方ないわけです。なんでもやりたがりの私としましては。笑

 

自分がやってることも、やってる範囲でなんでもお伝えしますし、そうやってみんなで豊かに楽しくやっていければいいなと思ってる。キリムでも太極拳でも、料理でもギターでも歌でも。結構いろいろできるな、自分。メルカリのコツなんてのもありまっせ。笑

 

こうして場所だけでなく、スキルのシェアもできたらいいなと思ってるし、その流れに少しずつ乗ってきてるのがうれしい。

………

 

作品の展示、ワークショップ、LIVE、そしてオープンマイク。やってみたい、出てみたいという方はお気軽にDMどうぞ◎

 

2024/0806 仮想現実が現実味を帯びてきてる

つらつらと書くことで自分のことば、自分が使うことばの定義をはっきりさせたい、というのが目的の一つとしてあるような気がする。日常的に話はしているけれど、よく使ってる割にその定義は曖昧だったりするし、聞かれても答えられないようなことばを使ってたりもする。

 

どういう意味でそのことばを使っているのか。書くことでそれを客観的に知りたい。書くうちに出てきた副産物的欲求。

 

スマホばかり見ていて、ごみを拾っているのにも気づかない

 

多くの人が感じていることだと思うし、かくいう自分もスマホを見てることが結構ある(信号待ちとか)ので、それが悪いと言える立場では無いのだけど、やっぱり異様な光景だなと思う。

 

朝早くに拾うようになってから、人が少ないのでその動きがよく見えるようになったわけですが、かなりの人がスマホを見ながら歩いている。思わず「みんな」と使いたくなるような、結構な割合。駅前だからというのもあるかも知れないけど、前よりも画面に夢中な人は増えてるのかなと。

 

バス停で待ってる人、その足元のごみを拾ってても反応がないし、ちょっとどいて欲しいとかちょっと邪魔やなとか、そういうのよりも、そもそもこっちに気付いていない。それが気になる。

 

そういう人たちは気配がないというか、生気が感じられなくて、ちょっと心配になる。余計なお世話だけど。中には「ありがとう」とすれ違いざまに声をかけてくれる人もいて、あっ、人がいてよかったなと、なんだかホッとする。

 

スマホの世界に夢中なら路上のごみも気にならないだろうし、それはそれで幸せな気がするけど、ぼくはそこまで没入できないので、やっぱり気になる人がごみを拾うしかないのだなと思う。

 

よく書いてることだけど、良いことだからというより「気になるから拾ってるだけ」なんですよね。気になる範囲も広いし、気になるレベルも高い(ちょっとのごみが気になる)ので、そりゃ拾うしかないわなと。

 

気になる、気がする、気がつく。この辺のことばはよく使ってるらしい。生気、気配。気のつくことば、結構ありますね。

 

「気」ということばは真ん中が〆になってるから良くないから「氣」という字を使う方が良い。そう聞いたことがあるし、一時は意識して「氣」を使うようにしてたけど、それ自体に疲れて最近はそのまま「気」を使ってる。

 

気を気にしすぎて気疲れする、みたいな。笑

 

結局は気にしないのが一番、という自分なりの結論に達しました。添加物とも似てる気がしますね。気にしすぎて、気をつかいすぎて、それ自体に病むというか。もちろんあえて食べる必要はないし、できる範囲で避けていくのは良いと思うけど、行き過ぎるとしんどくなるのはなんでも同じかも知れない。

 

さて、ここでクイズ。

 

「気」という字、ここまで何回出てきたでしょうか?笑

 

スマホの画面越しで見てる

 

またスマホの話で恐縮ですが、それだけスマホが生活に入り込んでいるというか、もはや必需品みたいになってるわけで。ただ依存性は恐ろしく高いので、付き合い方が難しいですね、やっぱり。比べていいものかは分からないですが、ギャンブルの比じゃないように感じます、この依存性は。経験者は語る。笑

 

夢拾いのときに花や空、虫なんかを撮ってますが、目で見るよりも先にスマホを構えて、その画面越しで見ることがほとんどで。大事なファーストコンタクトがスマホ越しというのは、なんとも寂しい気がするのです、自分的には。

 

だから極力、スマホを構える前に花を見る、空を感じるようにしてるのだけど、ひと昔前には当たり前だったことが、こうして意識的にやらないといけないほどまで依存していることに驚きます。

 

先にスマホで撮っちゃった時も、その後目で直接見るようにしてる。ライフスタイルの変化といえばそれまでかも知れないけど、大事な感性が死んできてるような気がして、それに抗いたい自分がいる。

 

ラーメンが運ばれてきても、香りを嗅いで美味しそう〜!っていう前にスマホ。夜景を見てあ〜綺麗だなぁ、と思う前にスマホ。朝起きたらまずスマホ。そりゃ現実世界と混同するわな、というか見てる時間の長いそっちの方がもはや現実か。仮想現実が現実味を帯びてきてる。

 

スマホが悪いみたいな単純な話じゃなくて、便利ゆえに気をつけてないと全てを持っていかれちゃいますよって話。だから使う側の意識は大事。便利だからと使いすぎて、使われてしまわないように。

………

 

写真は、今朝の雲。あー龍神やなと思ったので、きっとそうなのでしょう。

ちなみに目で見てから撮りましたよ。笑

 

 

クイズの答え 31個(氣も含む)たぶん。

2024/0805  変われ、変わるな。満足するな、満足しろ。

今日は拾ってるときに色々と浮かんできたので、それぞれ掘り下げてみます。自分のためにも。

 

◎とっとと嫌われて自由になる

 

SNSでつぶやいたのは「さっさと嫌われる」だったのだけど、微妙にニュアンスが違いますね。とっとと、さっさと。前者の方が投げやり感がある?のかな。とっとと嫌われろ、みたいな。笑

 

「もうしんどいのだけど、上(上司)には言えない」みたいな話を聞いて思ったこと。会社や組織ではよくあることだし、自分も多分に経験があるけど、上司に嫌われなくて失望されたくなくて、自分の言いたいことが言えない。良い顔してるから断らないから、どんどん仕事がやってきてキャパオーバーになる。そうやって心身を病んだことがある。

 

良い顔をしてるから(その面しか見せてないから)好かれてるわけで、早めに嫌われそうな部分、嫌な顔を見せていったら、嫌われて自由になるかなと。実際に嫌われるかは分からないけど。案外気に入られたりするのかも知れない。

 

とっとと嫌な面、言ったら嫌われる(と思ってる)ことを言って、先に自由になろうということ。それで好かれるか、やっぱり嫌われるかは相手が決めること。それで合わなければ次に行けばいい。展開が早くなる。

 

◎変われ、変わるな。満足するな、満足しろ。その狭間に求めてるものがありそう

 

変われ、成長しろ。そうずっと言われてたらしんどい。変わるな、ありのままでいい。そう言われるとホッとする反面、なんだかもの足りない。

 

満足するな、上を目指せ。これもずっと言われたら病むわな。満足しろ、足るを知れ。たしかにそうなんだけど、なんか不完全燃焼感。

 

偉人が残した名言でも、SNS上のポエムでもなんでも、言い切られるとその反対側が見えてきて、それだけじゃダメなんだよな、ってなる。がんばれって言われるとしんどい時もあるし、がんばるなって言われても無理したいときがある、みたいな。

 

言葉にするとどうしても、どちらかの極に偏ってしまうのだけど、生というのはもっと曖昧なものというか、そんな簡単に割り切れない。なにを言ったところで、結局はケースバイケースという話になる。がんばらない方がいいこともあるし、がんばった方がいい場面もある。自分の納得という点でも。

 

がんばるが振り子の頂点で、がんばらないが反対側の頂点、最高到達点とするなら、言葉にするとそこで止まっているようなイメージ。だから振り子としては死んでいる。言葉にした時点で生きてはいない。

 

生きているというのは振れている、揺れているわけだから、その途中に求めているものがあるのかなと。がんばるとがんばらない、あるとない。その間を常に揺れ動くものが生。

 

浮かんできたのはそういうイメージ。だからといって、言葉にするのは意味がないと言いたいわけじゃなくて「今どっちの言葉が響くかで、自分の状態がわかる」という点ではとても有効だと思う。がんばれと言われて嬉しいのか、がんばるなと言われてホッとするのか。

 

ただその答えは今の自分のものであって、いつまでもそれにこだわるな、ということ。だからたとえ同じ人であっても、それぞれの段階で言うことは違ってくるのが普通だと思うし、矛盾してるのが生だとも思う。

 

もっと怒れ(もっと自分の感情を表現しろ)と思うし、そんなに怒るな(怒ってもいいけど言い方を考えろ)とも思う。

 

ただ生きろ、ただ生きるな。

 

◎荒れてるごみのおかげで、こっちのごみが綺麗

 

今朝の夢拾いで、収集にと出されたごみをカラスが啄んでる場面に遭遇しまして、それはそれは派手に散らかっておりました。すき家の前辺り。

 

で、うちの前のごみ集積所(ごみステーション)を見てみたら綺麗だった。出し方の問題うんぬんはあるかも知れないけど、その荒れてるごみにカラスたちが殺到して、こっちのごみが無傷で済んでる、みたいなこともあるんじゃないかと。

 

荒れてるおかげで、ほかが荒れずに済む。そう思ったら、また変なことが浮かんだ。わざと荒らしてもいい場所を作って、そこを荒らしてもらう。で、荒れた「そこ」はみんなで協力して掃除する。

 

吸いがらとか見ててもそうだけど、あらかじめ集まってるところにポイ捨ては増えていく。だからあえて集めておくことで被害は小さくなるのでは、とよく思ってる。ごみ箱のように分かりやすいものではなく、うっすらポイ捨てポイントへと誘導する。汚いところをわざと作っておいて、そこへおびき寄せる。笑

 

真面目な人はごみ箱へ、不真面目な人もうっすらポイ捨てポイントへ。みたいな。上手く説明できてないような気もするけど、とりあえず今日浮かんだまま。

 

ごみ集積所っていまいちピンとこない響き。ごみステーションは「ごみ捨て」とかかってるから響きは良いのだけど、ステーションと呼ぶにはいささか寂れてる気がする。なにか良い名前はないだろうか。どうでもいいけど。笑

………

 

写真は、今朝の散らかったごみ。

 

2024/0803 言う割に大して鬱陶しくない

二日空くと筆が重くなる日記。笑

 

続けるのって大事やなと思いつつ、続けてると書くこと自体よりも、その内容を考える余裕が出てくるように思う。書くことを習慣にできれば、書くことが自分の中であたりまえになって、労力としてはゼロに近づいていく感覚。その上でなにを書くか、さらにはどう書くかを積み上げていける。

 

なんとか書くことを習慣にしたい自分と、休みたい自分。そのせめぎ合い。それ自体を書くことで習慣化する作戦。笑

 

書く量が多すぎる(自分にとっては)のか、書く内容を取り繕ってるからなのか。はたまたそれ以外の理由か。どこが引っかかってるのかを観ていくのも、結構楽しい作業。読んでもらうのを意識すると色々考えてしまうから、という線は濃厚かなと。上手く書かなきゃ、って。

 

今はそれは置いておいて、とにかく書く。そういう段階ですねきっと。このアプローチを続ける限りは、自然と上手くなるはずだろうし。分かっちゃいるけど続かない(スーダラ節風に)笑

 

◎言う割に大して鬱陶しくない

 

鬱陶しいって漢字で書くと、うっとうしさがより伝わりますね。良い漢字。

 

先日運転中に鬱陶しい場面に遭遇しまして。飲み屋街にある信号の無い横断歩道。夕方だったのですが、早くから出来上がってる酔っ払いと客引きが結構な数おりました。横断歩道を渡ってるので一時停止。次から次へと渡ってくる。ようやく行けると思ったら、客引きがダラダラと横断歩道を右左。

 

やっと横断歩道を越えたところで、思わず「あー!鬱陶しいな!」と車の中で叫んだのです。ですが、その感じが前とは違う。以前は本当に鬱陶しくて、叫んでそれでスッキリする、みたいなところがあったけど、今回はそもそもそんなに鬱陶しいのか?って考えてしまった。

 

そしたら大して鬱陶しくない。でも前はそう叫んでたから、まだそうしてるだけ。クセというか、からだに残ってる反射みたいなものだった。それに気づいたら、もうこの場面は鬱陶しく無いんだなって、(良い意味の)虚無みたいなものがありました。無いのがあるって面白いけど。

 

この場面は卒業、次のステージへ!みたいな。笑

 

◎手書き風、心がこもってる風

 

街を歩いてると手書き風のフォントが増えた。看板でもメニュー表でも、広告でも。微妙に上手じゃない筆文字、ペン字みたいなのを使って、親しみやすさやおしゃれさを表現したいのかなとは思うのだけど、いかんせん「手書き風」なだけで、フォントなのが丸わかり。それでも目新しいうちは良かったものの、今では街に溢れてる。埋もれていく。そうなると、手書き風のメリットはあまり無いように思う。

 

手書きだから心がこもってるのが伝わるのであって、手書き風は心がこもってる風なだけ。こっちも伝わってる風で。笑

 

どこもかしこも同じテクニックを使いすぎて、消費者の反応がなくなってる気がする。

 

どうしてこんな話をしてるかといえば、じつは電車の中吊り広告やSNSの広告を見るのが趣味なのです。中でもフォントとキャッチコピーが大好物。今のトレンドがわかるし、心理テクニックみたいなのを想像するのが楽しい。

 

◎ネガティブ通常運転

 

書いてていつも感じるのは「ネガティブを少し面白く表現したい」というのが自分の根底にあるらしい。だからネガティブが好きだし、ほかの人よりもその取り扱いは上手な気がする。ほら、ネガティブでもこんな楽しく生きれますよーって。もうこれはポジティブか。笑

 

ぼくにとってネガティブに考えるのは通常運転で、それを表現できれば自分らしさという点でポジティブになるのかもしれない。外から見れば。

 

隠せば光でさえも闇となり、晒せば闇も光と変わる。

 

そんなのが降りてきた。笑

………

 

写真は、製作中の45×45cmのキリム。

 

土台が完成。続けてるからか、これも大変だとは感じないですね。

 

 

2024/0731 高島屋の閉店と和太鼓の練習

気がつけば七月ももう終わり。あっという間のような、でもいろんな体験ができてるような。体感としては短くて、体験の数としては長い。そんな七月でした。蕎麦を習ってきたのもつい二週間前。というか二週間も経ってるのか。そろそろ自分の家でもやってみないと。忘れないうちに。笑

 

すでにメルカリで蕎麦打ちセットは買ってあるのですね。じつは習いに行く前には買ってたのだけど。「先に道具を揃えちゃうような人は、想いがあるからやっぱり上手ですよね」と褒められましたよ先生に。早くやろう、忘れないうちに。笑

 

忘れないうちにと言いつつも案外手は覚えているもので、あとはそのフィーリングをいかに深めていくかなのだろうと思ってる。反復と検証そして改善。料理は化学だなぁといつも思う。そこへの真摯な姿勢が真心なんでしょうね。さあ、やろう。笑

 

七月の終わりで終わりを迎える岐阜の高島屋。先日も家族で行ってきましたが、できたのは47年前だそうで。生まれたときにはもうあった高島屋。あたりまえにあったものがなくなるというのは、やっぱり寂しいですね。生きるというのは別れの体験でもあるのか。閉店の挨拶。また今夜、観に行ってきます。

 

新岐阜百貨店がうちのすぐそばにあったし、ダイエー、パルコ、近鉄百貨店、長崎屋。岐阜市にはたくさんのデパートがあったのだけど、高島屋の閉店でついにデパートがなくなる。デパートってなにを買うわけじゃないけど、なんか楽しい場所。意味もなく、とりあえず行ってぶらぶらできる場所。涼しいし。

 

そんな余白を感じられるから好きだったのかもしれないですね。コスパ、タイパの流れにあってはなくなるのも仕方ないのか。47年間本当にありがとう。そう伝えてこよう。

 

話は変わって昨日の和太鼓練習。土曜日に市橋祭りで打ちまして、火曜に練習してと、自分の生活の中でも結構なウェイトを占めるようになってきた和太鼓。始めたのが4月の頭だから、およそ4ヶ月でここまでの存在になってるとは人生面白いなと思う。まだ出会ってないもの、ひとの中にもそんな存在があるのかと思うと、これからの出会いも楽しみになってくる。

 

男性でしかも身長があるので基本大太鼓を打ってるわけですが、良い音を出したくて魂を込めて打つとほんと疲れる。この間の本番あとはまさに魂が抜けてた。笑

 

このままじゃ長時間の演奏はできないし、精度も落ちてくるのでこりゃいかんということで、昨日からまたフォームの再確認と省エネで良い音を出す方法を模索中。楽をしたいわけじゃなく、良い演奏のための楽、脱力、余白は大事だなと思ってる。楽にできてこそ自分の音を楽しめる。そんな余裕を持てるように練習する。遊びだからこそ真剣なのですな。

 

昨日の研究の成果か、今朝はいつもより疲れが少ない気がする。引き続き精進します。大太鼓は流石に一家に一台というわけにいかないから、練習の日が大事になってきますね。あとはイメージトレーニングも。先日見せてもらった雷門先生の模範演奏が、こういうところで生きてきますね。見るのも練習。いかに良いイメージを自分の中に持てるか。

 

はじめて4ヶ月のペーペーだけど、気持ちだけは一丁前にやってる。笑

 

◎根気のいる作業が好き

 

夢拾いでもキリムでもそうだけど、根気のいる作業みたいなのが好きなんだなと思う。周りの人から「根気があってすごいね」と褒めてもらえるけど、根気がいるような、つまりはすぐには結果が出ないようなものが好きなだけで、本人には頑張ってる感がまったく無かったりする。

 

さらに言えば、結果が出るかどうかさえも怪しいものというか、目に見える結果が出ないものに興味を持ちがち。夢拾いなんてそれの最たるもので、綺麗になってもまた汚れる、日々一進一退の中で続けてるけど、その内面では大きく変わってるのを知ってる。だからこそ、もうやめることはないように思うし、頻度は変わっても一生続けることの一つかなと。

 

楽器の練習もそれに類するものだから、好きなのかもしれない。内なる宝を磨くもの。

 

◎特別なことよりも、いつものことを新しい角度で書く

 

とかく非日常を求めがちで、そんな特別なことを書く傾向にあったのだけど、最近はいつものことを新しい角度で書くようにしてる。そのためには、いつものことを別の角度から見る必要が出てくる。そうするといつもの日常が、じつは毎日ちがってたことに気がついた。非日常を求める必要がなくなってた。そんな感じ。毎日飽きないし、毎日があたらしい。

 

写真は、家族3人で行った岐阜高島屋

 

#56

2024/0730 電子たばこが9割

本にありそうなタイトルになった。「吸う力」みたいな新書の帯に、書いてそうなフレーズ。〇〇は電子たばこが9割。笑

 

拾ってて最近感じるのは、電子たばこが増えているなと。数えたわけじゃないけど、体感としては9割くらい電子たばこの吸いがらです。ちょっと前は半分半分くらいだったような気がするので、一気に増えた印象。あくまでぼくの世界の中での話、ですけどね。街は電子たばこが9割。

 

ここでふと気になったのは「電子たばこ」か、片仮名で「電子タバコ」か。自分としては「たばこ」の方がしっくりくるのだけど、電子感があるのは「タバコ」のような。電子ピアノ的な響き。あ、でも「電子タバコ」と書くとタの字が、漢字の夕(ゆう)にも見えるから、夕子感?があってイマイチだなぁとか。どうでも良いところが気になってくる。自分にとってはどうでもよくないのだろうけど。

 

イマイチという表現も、いまいちと平仮名で書くとずいぶんイメージが違って、そうなると結構使い分けてるのかもしれない。自分なりに。話すのと書くのでは、表記をどうするかの点にも違いがありますね。字面へのこだわりみたいなのが出てくる。こうなってくるとなかなか書き進まないのだけど、書き進まないと書くことで、書き進んでいくという。笑

 

ノンタイトルの強さというか、だからこそテーマに沿って話が進められないのですね、私は。主旨ではないところがいちいち気になって、でもそれは今は置いておきましょう、主旨に戻りましょうみたいなのができない。気になったらそこから進めないから、その「いちいち」を自分なりに解消する必要が出てくる。

 

それを楽しんでくれる人や場ならいいのだけど、例えば参加費をいただいてる人たちの前で、何かのテーマについて話す講演?みたいなのは難しいなと今思った。「篠田幸二の脱線トーク」みたいなのならできるか。笑

 

そうそう、電子たばこの話でしたね。とりあえず平仮名で「たばこ」の方が好みなので、それで進めます。平仮名も「ひらがな」の方がひらがな感あるよね、ってもうええわ。笑

 

いつも拾ってる商店街にある、大きな喫煙所がいま工事中で(ただ立ち入り禁止にしてあって工事する気配はナシ)、そのせいもあるのかなと思ってる。

 

火をつける普通のたばこの方が嫌がる人が多くて、世間的には風当たりがキツいように思うし、それで喫煙所がなくて外で吸ってるとしたら肩身が狭い。電子たばこだったらほとんど煙はないし、においも少ないし、しかもそのままサッと移動できる。

 

そういう理由で電子たばこが増えてるのかなと。拾う吸いがらの8〜9割くらいは電子たばこ、そんな体感値。うちの親父はヘビースモーカーだったけど、別にたばこは嫌いじゃないし、ぼくがよく出入りしてた競馬場やパチンコ屋なんてそれありきというか、だからたばこのにおいで落ち着くようなところさえある。笑

 

なので全くアンチたばこ、嫌煙家でもなく、言ってみれば「吸わない親煙家」なのだけど、その目線からすると、世の中の愛煙家への当たりは強すぎるなと思う。犯罪者でもないし、むしろたばこ税を余計に納めている功労者のような気がするのだけど、どうしてここまで世間は冷たいのか。

 

本当にからだに悪いのなら売らなければ良い話で、売っておきながら居場所を無くしていくような流れは好かん。あ、売っておきながらで思い出したのは花火セット。コンビニやスーパーその他いたるところで売ってるけど、あれ、やる場所あります?笑

 

昔は公園で花火をやった記憶があるけど、今はおそらくダメですよね。一軒家の庭でやってても、音が煙が笑い声がって苦情がきたら出来なさそうだし、マンションなんてやるところなさそう。あんなに売ってるのに、やる場所が思い浮かばないってどうなってるんや。花火もたばこも。

 

話をたばこに戻すと、だから隠れて吸うようにもなるし、公の喫煙所がさらに減って、それは加速しそうな気配がある。隠れて吸うから、隠れて捨てる。見えにくい所に捨てるから、そりゃ拾いにくいわなってことで負のスパイラル。

 

電子たばこの話というよりは、たばこ全体のごみ論になったけども、拾ってて圧倒的に多いのは「吸いがら」だから、やっぱり考えることは多い。売るなら、それを使う場所の管理もセットなんじゃないかと。

 

売るだけ売って、あとは知らんよみたいなのが多すぎるなと思う。コンビニもマックもスタバも、そして自販機も。

 

買ったそれを食べ歩く飲み歩くわけだから、ごみ箱をもっといたる所に設置、管理する必要があるんじゃないかと。でも現状は店内のみで、その表にすら出していないという。売るだけ売って知らんぷりの、そのセコい感じが腹立つわけですな。

 

で、そのごみを拾ってる人たちはボランティアで、無料でやってる。そんな歪な構造だから、そりゃどこかでエラーが起こるよね。そう思いながらも、とりあえず拾ってる。

 

だれが悪いかはさておき、自分が気になるから。犯人探しよりも、まずは目の前のごみを拾いたい。もちろんそれと並行しながら、ごみが出ないシステムについて考えてはいるつもり。いま起こっているのは、全体としてのシステムエラーだと思う。

 

自分がいなくなったら、この世界はどうなるだろうと思うけど、いなくなったら思う自分もいないから、気にしなくていいのか。そんなことを先日ふと思った。

 

いま気になるから、いまやってる。それだけでいいし、それは自然と次の世代へとつながるから、やっぱりいまの選択なんだなと。結論なんて出ないけど、いま思ったまま。