夢拾い日記

夢拾いしながら感じたこと、思いついたことを綴っています。

2024/0729 手で考える

坂口恭平さんの本「生きのびるための事務」を読んで、これは自分もなにかしたい、本を書きたいなら毎日文章を書くことから、ということで始めたこの日記。およそ2ヶ月が経ちまして、数えてみたら記事の本数も50を超えておりました。当初は書かなきゃと書いてたものも、今ではずいぶん自然に無理なく書けておりまして、習慣付けられたこと自体が、自信になってきてる。

 

これまで読んでいただいた方には伝わってるかも知れませんが、そんなことまで?と言われるくらい、日々ごちゃごちゃと考えているのですね。だから書くネタには困らないわけで、それならいざとなれば本は書けるなと、ある種執筆活動を舐めてたところがあった。

 

だけど今回書いてみて、頭の中で考えるのとこうして書くのでは、大きな違いがあるなと。実際書いてみると、語尾だったり、ひとつの文章の長さだったり、かなり考えるところがあって、あとは同じ物言いが重ならないようにするのも大変だったりする。「〇〇だけれども」「〇〇なわけですが」みたいな言い回しがすごく多くて、あとで添削してて自分でも笑えてくる。笑

 

そうやって、気づかなかった自分の口癖を知ることも糧になるし、考え方の癖も如実に現れてきたわけです。ぼくは基本否定的にものごとを捉えてるのだけど、その方が希望を感じられるからそうしてる、というのが見えてきた。だからそのまま否定的に、でも言葉はなるべく暗くならずニュートラルなものを選びたい。今はそう思って書くようになった。

 

ある点では厳しい、(自分にとっても)耳の痛いことを、明るいサウンドに乗せて歌う、みたいなイメージ。曲としてはスーッと入ってくる。でもこの歌詞、結構辛辣なんやなって感じ。笑

 

日々書き続けることで、筋トレと同じく力がついてくる。そうすると、書くこと自体はそれほど苦じゃなくなって、それじゃどういうことを書こうか、みたいな余裕が出てくるようで。書くことが目標だったのから、今ではその内容を求めるようになってきました。あくまで自分の満足のために、ですけどね。

 

書いてると自分の考えが見えてくるし、それを読んでまた自分の考えが広がっていく。でも記事にするためには、どこかではまとめる必要が出てくるわけで、編集力というか仕上げる力みたいなのもついてくる。どんな体勢からでも着地を決められるようになる。

 

お会いしたことはないけど、投稿が好きでよく読ませてもらってる方(Twitter)がいて、その方が「書く」について面白いことを仰ってたので、下に引用します↓

 

(+M laboratoryさんの投稿より)

 

おれは、3分考えて分からないことは、「今のおれでは無理」とあきらめてそれ以上考えないですね。

それ以上のことを考えたいときは、文書を書く。手に頼る。

頭では今の自分の限界の範囲でしか考えられないが、手に頼れば、自分を超えて自分にも分からない領域にまで思考の触手を伸ばしていくことができる。

 

(ここまで)

………

 

手に頼るって表現が面白いですよね。だけどこうして日常的に書くようになって、自分の思考を超えていく手ごたえをわずかながら感じているわけで、なるほどなと思う。

 

ギターを弾いててもそういう場面はあって、この音どこだろう?って頭で探すと分からないときでも、なんとなく指を置いてるところがその音だったりする。手が知っている。

 

速弾きにしても、そのフレーズの運指を教えるのは頭でも、それを反復練習を繰り返すことで、手が勝手にやってくれるようになる。いつしか頭では制御できないほど、速く指が動くようになる。手が頭を超えていく。

 

頭でっかちという言葉があるけど、あれは真理なのかも知れないですね。頭だけで考えていてはバランスが崩れますよ。だから手をつかって、からだをつかって下さいねって。そしたら、からだもでっかくなってバランスが取れる。気がついたら自分全体が大きくなってて、それを成長と呼ぶのかもしれない。

 

まあ難しいことはさておき、書くのが楽しくなってきたのでそれが一番ということで。そんな着地で今日はおしまい。笑

 

続ければ大抵のことは役に立つなと。

………

 

写真は、坂口恭平さんの「生きのびるための事務」

 

将来の夢よりも将来の現実。夢を具体的にしてくれるのが事務。己を疑うのではなく、方法を疑うべし。そんな本です。超おすすめ。

 

 

2024/0728 経験という点から見れば、なにひとつ失敗はない。

昨日SNSに投稿したものですが、これは夏まつりでの和太鼓演奏の前にふと思ったこと。和太鼓にも楽譜はあるので、それと合った演奏ができるかという点では失敗というのはあるし、それを認識して練習するからこそ上達もする。だけど経験という点から見れば、楽譜と合ってないその失敗さえも貴重な経験で、なにひとつ無駄はないのだなぁと。そう思ったら、ふっとからだの力が抜けた。

 

それがたとえ、一人で演奏してる場面で、自分が止まったら演奏自体が止まってしまうような、または大きく間違って全体が壊れてしまうものだったとしても、それも経験。むしろ、なかなかできないくらいの貴重な経験とも言える。チームに大きく迷惑をかけてる、それも経験。そう思ったら、なんだか楽しくなってしまった。笑

 

だからといっていい加減に練習してるわけでも無し、むしろ精一杯準備したつもりで、それでもなお失敗するとしたらもう悔いはない。その覚悟というか、潔さの方が大事なんでしょうね。自分なりに懸命にやったなら、あとは得るものだけ。たとえ懸命にやらなくても、それで悔いが残るのも経験か。人生はゴールドラッシュ。

 

そう思ったら緊張が解けて、自分としては良い演奏ができた昨日の夏まつり。たくさん間違えたし、途中どこを打ってるかわからなくなったけど、それもすごくいい経験になった。思ってるより曲が覚えれていない。身に染みたら、人は勝手に練習するものなのですな。さぁ、やろ。笑

 

母親が動画を撮ってくれてたので、またシェアしますね。

 

久しぶりに、夢拾い中のメモより↓

 

◎群れるとひとは、態度がでかくなる。

 

ソロ活動のときは大して言ってこない割に、グループになると途端にひとの思想にまで踏み込んでくる。たくさんいることで、自分は正しいと錯覚しはじめるらしい。

 

そういう人たちは基本だれかの論理に頼っているため、話をすると基盤がなくてふにゃふにゃ。まさにぬかに釘、豆腐にかすがいなので、基本なにも言いません。時間の無駄。

 

「〇〇さんもこう仰ってます」「大手△△紙にもこう書かれてます」ほうほう。で、あなたの考えは?ってなる。基本だれかの考えを喋っているだけで、踏み込むとその中身は空っぽ。それがバレるとまずいので、失礼だとかなんとか言ってぼくを悪者にしてくる。だからもう話したくない。笑

 

◎蝉の声がうるさくないのは、ただ鳴いているから

 

その反対に、街頭演説や路上ミュージシャンの歌声で耳に障ることがある(多い)のは、ただ話している歌っているだけじゃなくて「聞かせようとしてくる」から。その心根が障るように思う。正しいだろう、上手いだろう、と。

 

自分が楽しくて話してる歌ってるのなら、きっとそこまで気に障らないのだろうと、蝉の声を聞きながら思った。

 

◎水よりお茶の方が高かったりする

 

気温が高くなるにつれて、拾うペットボトルもすごく増えてる。水かお茶、あとはスポーツドリンク。ぼく自身、普段はほとんどペットボトル飲料を買わないのだけど、先日久しぶりに薬局で購入。お茶が77円?だったかな。水と比べると、お茶の方が安いものがある。というか、多いかもしれない。

 

ミネラルウォーターだからという理由もあるのかもしれないし、ブランド的なことかもしれないけど、手間のかかってる(であろう)お茶の方が高いのって不思議だなと。茶葉もいるしね。

 

その流れで思い出したけど、水や土地、天の恵みで無料だったものを、管理して有料にしてる。だからみんなに行き渡らない。それはおかしいんじゃないか。そんなインディアンの言葉を読んで考えさせられた。あくまでぼくが覚えてる話で、若干ニュアンスは違ってるかも知れないですが。

 

価格とはなんだろうか。

………

 

写真は、昨日の市橋夏まつりにて。母撮影。

 

2024/0727 怒るために夢拾いをしてる

今朝の夢拾いはのっけからイライラ。笑

 

シャッターを開けるとすぐにごみが散乱しておりまして。それだけなら、たまにあることなので大したことないのだけど、散乱した中にカップ麺の容器があったのです。で、その食べ残しをあろうことか、入口に置いてるイミテーションの観葉植物の中に捨ててやがってですね、もうどうしようもないというか、坦々麺臭いのですよ。掃除しようにも、まあ手間がかかる。

 

こういうのが本当嫌で、心底うっとうしいなと思う。食べ残しをそのままカップに入れておけばよいものを、わざわざ変なところへ捨てて、こっちの手間が増えるやつがほんとイヤ。夢拾い中にたびたび怒ってるのは、たいていこのパターンです。余計なことをしてるやつ。

 

缶コーヒーの中に吸いがらを入れてるやつに、側溝の隙間に押し込んあるペットボトル、びりびりに破ったATMの明細。もう、わざわざこっちの手間を増やすなよと。吸いがらは何度も振らないと出てこないし、押し込むのは足でやってるから、ペットボトルを引き抜くにも難儀するし、散らばった紙片も手数がかかる。せめて丸めて捨ててくれ。笑

 

と、まあイライラしながら、文句を言いながら拾ってるわけですが、実はそんな自分が好きだったりもする。普段イライラするような場面が減ってるから、怒リたくなるような事象を求めてる、みたいなところはありそうです。怒るために夢拾いをしてる、という部分がある。

 

あとはネタ探しとしてもやってますかね。つい昨日も座布団が落ちてまして、びっちゃびちゃだったので、とりあえず乾かしときました。そんなのまで落ちてるんやとか、どういう経緯でそうなったんやろみたいな、会話も楽しめるし、ごみ拾いにも興味を持ってもらえる。それも楽しさの一つですかね。

 

日常ではあるけれど、拾ってるからこそ見えてくる面白さみたいなのがあって、それはちびまる子ちゃんに通じるものがある気がする。日常を楽しむためのひと工夫、みたいなところ。

 

およそ1時間拾ってると4000歩近く歩いてるので、健康にも良いと感じてます。ウォーキングだけしてるより飽きないですしね。人の行動心理を考える材料にもなるし、ネタにもなるし、怒ってすっきりもする。笑

 

いつも温和で穏やかでみたいな人に憧れはあるけど、怒って文句言ってる、問題点を探す、改善策を考える、そういう方が性にあってるように思う。それが自分なりの健やかさ。笑

 

ウォーキングに加えて、拾うときの姿勢にもひと工夫あって、腰から曲げるというよりは上半身はなるべく直立のまま膝を曲げる、筋トレで言うところの「クランチ」みたいな姿勢で拾ってます。これは整体師さんから教わった動きを、自分なりに夢拾いにも活用したものですが、おかげで腰が痛くなくなったし、下半身とくに太ももの筋肉が鍛えられます。

 

スポーツジムでの筋トレをやってたこともありますが、こういう日々の生活の中で自然と鍛える方が好きですね。使う筋肉だけが付くから、変に重くならずにスタイリッシュな体型になる。使えるからだになる感じ。

 

和太鼓を始めて、大太鼓を打つようになってから上半身も鍛わってきて、全身のバランスが取れてきてるのも嬉しい副産物だったりする。下半身は夢拾いで、上半身は大太鼓で。

 

「楽しんでたら、ついでに筋肉ついてたわ」みたいなのが好きですね。サーファーもきっとそんな感じかなと思ってる。いかんせん海が遠いのでやってませんが。移住することがあったら毎日やってそう。サーフィンにビーチクリーン。

 

もともと運動が好きじゃないし、なので音楽やキリムみたいな芸術畑っぽいことばかりやってるのだけど、夢拾いと大太鼓のおかげで鍛わった体は、人生最高に引き締まってるように思う。いまが一番からだが強い、というか。

 

「楽しんでたら良い方向へいく」そんな人生がいいし、だからこそ楽しめるものしかやってないけど、そうするとやっぱり良い方向へ行ってるように感じる。なにかのために〇〇をする、みたいなのとはスタートが逆なイメージ。必要なものはあとからついてくる。

 

だからきっと、怒るのさえも楽しんでいるのだろうし、それをここに書くことでネタにも昇華してる。なんてムダのない我が人生。そして今日はここまで。

………

 

写真は、シャッターを開けてすぐの家の入り口。左端に写ってるのがイミテーションの観葉植物とカップ麺の容器。

 

2024/0726 共感の魔力

今朝の自分のSNS投稿↓

 

共感されない方向へ、孤独感が強まる選択をしていく方が、なんだか自分らしい人生になるような気がしてきた。

 

寂しさはあるのだけど、慣れてくるにつれて充実感が増してくる。

 

(ここまで)

………

 

最近感じていることの根幹には、これがずっと横たわっている気がする。寂しさはあるのだけど、充実感もある。これは今までに経験したことのない感覚で、これでいいのか不安があるらしい。だからまた、共感を求めて投稿してるわけで。でも感覚的には、独りになる方向が正解だとは知っているらしい。

 

なにが正解かなんて死んだ時に分かるか、もしくは死んだ後も分からないのかも知れないけど、自分にとって新しい道を歩む方が充実感はある。未知なる道は不安な方向ではあるけども、でもそれは単に未知への恐怖に過ぎなくて。恐怖を感じられるのも、その先へ行ってみたいと興味があるからかなと思ってる。

 

「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」という有名なフレーズがあるけど、オンリーワンが嬉しい(望んでる)割には、多くの人が共感を求めてるのって面白いなと思う。かくいう自分もそうだけど。

 

例えば「こんな辛いことがあったんですよ」って話したとき、「あー!分かる分かる」って共感されて嬉しい反面「この辛さが分かるわけない」「分かられてたまるか」みたいな自分も居て、一体どっちやねんってなる。共感されたいけど、全ては理解されたくない。そうでなきゃ、オンリーワンじゃないもんね。笑

 

そういう意味でも、孤独感が強まる方向へ進むのはアリだと思うし、現状そうなりつつあることが正解だとも感じてる。あくまで「いまの自分にとっては」ですが。

 

自分のSNS投稿に関しても、以前はいいね!が多いと嬉しかった(今もありがたいなとは思ってる)けど、最近はいかに自分の考えをそのまま表現できるかにフォーカスしてて、それが達成できると嬉しいらしい。

 

いいね!がつくと嬉しい反面、多くの人が観てるから変なことは書けない、さらにいいね!がつくにはどうしたらいいか、そんなことを考え始めて、他人に迎合するような物言いに変わっていく。自分の考えよりも、みんなが理解してくれそうなことを考えるようになる。

 

「自分の考えに共感されて嬉しかった」のが、いつしか「共感されるように自分の考えを捻じ曲げる」ようになってた。こうやって書くと、捻じ曲げてまで共感は得たくないよって思うかも知れないけど、「みんなのため」だとか「役に立ちたいから」なんて大義名分があれば、容易にそうなってしまう。ぼくはそうなってた。あくまで自分の場合は、だけど。

 

そうやって自分の考えを曲げながら、それでいいね!を得てしまうと、まぁどこかで変な風になりまして、嘘をついてる自分がとても嫌になったのですね。ひとを騙してお金を稼ぐのって、きっとこんな感じなのだと思う。

 

そんな経験を経て、最初に書いた「共感されない方向へ」ということを考えるようになったのでしょう。自分から共感を求めない、ということ。まず自分の考えをオーガニックに出して、それが共感されようがされまいが、また次の日も同じようにオーガニックに出し続ける。外の評価に影響されない自分でありたい。

 

(オーガニックの使い方が怪しいけども、浮かんだまま笑)

 

それをSNSを避けるわけじゃなく、むしろその中で自分を保っていられるか。そんな鍛錬をしてるのかも知れません、自分なりに。

 

雑踏の中でも、自分らしく生きる。

 

2024/0725 否定的な生き方が好み

自分が書いてる日記を読み返すと、ここ最近はとくに否定的なもの、ネガティブな記事が多いなと感じる。どちらかといえばネガティブ寄りの人間なので、大して気にはしてないし、ポジティブにしようとも思わないけれど、客観的に読むとちょっと荒れてるというか、シリアスな印象がある。

 

面白いのは、それが行き過ぎるとからだも強張ってくるし、疲れが溜まりやすくなってくる。経験上、そんな感じ。世の中のこれが良くない、自分のここを直したい、あの出来事にはどういう意味があるのか。そんなことを思い悩むうち、どこかでピークが訪れて「もうどうでもいいや」「まぁ、いっか」ってなる。張り詰めた緊張が一気にほどけるように、堰き止められたダムから一気に放水されるように。

 

ネガティブを突き詰めていくと、どこかでポジティブに反転するのを知ってるからこそ、安心していつものネガティブな暮らしを楽しめるわけです。ネガティブな面ポジティブな面、ともに自分の中にあって、それを波のように行き来してる。

 

いつでも明るく元気なポジティブになろうとしたときもあったけど、やっぱり性に合わなくて、無理が生じてしんどくなった。ネガティブベースで日々を過ごしながら、たまに訪れるポジティブなピークを楽しむ。そんなのが自分には合ってるかなと。人間大なり小なり、躁鬱病的なところがあると思ってる。

 

今朝起きたくらいに、その鬱というかネガティブなのが底を打って、ポジティブな方へと切り替わったのを感じてます。ごみを捨てる人のことを考えてばかりいたのが、急に花を愛でたくなる不思議。人間、いつまでもネガティブに留まることはできないのでしょう。

 

加えて、夢拾い終わりの自撮りの表情も、どこかすっきりしてるように見える。あの自撮り、意外と役に立ってるんですよね。それと、とある人には「ブランディングできてる」と褒められました。たしかに、ごみの入ったトートバッグとトングを片手に、同じ構図で5年近く自撮りし続けてるわけで、ひと目見ればぼくの投稿だと分かりますよね、あれは。笑

 

全然狙いはなかったけど、結果的には多くの人に覚えてもらえてるなと思う。印象付けること、他の投稿の中でも目立つこと。それができてる。たまたまなのか、そういうのが好きなのか。ボランティアみたいなのばかりやってるけど、そういうビジネス目線の自分もたしかに居て、その部分が好きだったりもする。

 

ビジネスに興味はあるけど、お金を稼ぐのにはあんまり興味はなくて、そのシステム作りが好きなのかなと。自分ではそう分析してます。絵を描いて売る、書を売る、講演会をしてお金をいただく、弾き語りをしてお金をいただく。ごく小さなものだけど、そんなビジネスをいくつもやってみたし、実際お金もいただいてきたけど、その流れを体験できると、途端に興味がなくなるという。続けたらうまくいくよと言われても、本人にその気がないから、どうしようもない。笑

 

ネットショップも色々やってみたし、クラファンみたいなのもやってみたし、どれもある程度成果を上げるものの、そのあとが続かない。お金というのはモチベーションにならないのかも知れません、ぼくの場合は。

 

お金にならないものの方がユーザーが少なくて、その先を知る人も少ない、未来が見えにくい。それが楽しいから、ボランティアみたいなことが好きな気がします。続ける人がいないからこそ燃える、的な。お金になるものには参入者がたくさんいて、それはそれで競争で燃える人もいるけど、それは好みじゃない。ボランティアが良いからやる、というより単に好みの問題かなと思ってる。

 

ボランティアをビジネスの宣伝的にやってる人もいるし、ビジネスで稼いだものをボランティア活動に投資する人もいるし、それは単純に分けられるものでもないように思う。またなんの話かわからなくなってきたけど。笑

 

どうやら、いつも考えてることの一つに「ものごとはそんな単純に分けられない」というのがあるようで。度々こういう結論で締め括ってるような気がする。ポジティブもネガティブも、躁も鬱も、ボランティアもビジネスも。どちらか片方だけってことはなくて、だからこそどっちが良いとか悪いとか論じたところで意味はないなと。

 

好みでどちらかに偏ってることはあるから、そんな自分の好みを知って、同時にその反対側、好みじゃない方の良さも認識していく。そんな風に真ん中に歩み寄りながら、今の自分がどうしたいかをまた選んでいく。そうやってなるべく偏らずに歩いていく人生が、自分としては楽しいと感じてる。それもまた好み、ですけどね。

 

………

 

写真は、今朝の自撮り。はじめのうちは笑顔を作ってたけど、無理してる気がしてやめた。

 

2024/0724 手加減を知らない男

昨日は和太鼓の練習。今週土曜の本番「市橋夏まつり」に向けての最終確認でした。できてるところできてないところ。とりあえずはっきりしたので、家で練習できるところはやって、あとは良いイメージで本番を迎えようと思う。

 

和太鼓って相撲の立ち合いみたいなところがあって(個人的な印象かも知れませんが)、息を合わせる面白味がある。カチッと決められてるというよりは、曖昧な感じが魅力。人間がやってるなぁと実感できる。生きてる鼓動。

 

たかだか始めて3ヶ月のペーペーですが、とても魅力的な楽器だと思います。さすが伝統楽器。7/27(土)市橋夏まつりは、岐阜市にある市橋小学校にて。和太鼓の演奏は19時〜よかったら観にきてください。

 

最近、大太鼓の練習が終わると疲れが半端なくて、次の日は全身が筋肉痛になる。もちろん今日も筋肉痛。笑

 

打ってるのはせいぜい1時間くらいなんだけど、良い音を出したいと思うとまぁ力いっぱい打ってるわけで。今はその方法しか知らないので、とりあえずできることを全力で。魂を込めるじゃないけど、一音一音気持ちを込めて打つ。脱力はそのあと、からだが自然とやってくれるものかなと思う。数をこなせば、自然と削ぎ落とされる。もちろんフォームには気をつけながら。

 

そういえば、昔カラオケで歌ってたときも一曲終わると本当に疲れてたのを思い出した。

 

フリもつけてというか自然とからだが動いてしまうから、まさに全身運動なわけです。ハイトーンの歌い上げ系の曲が好きだから、まぁとにかく激しい。X JAPANみたいな曲ばっかり歌う。曲が終わると消費カロリーが表示される機種があったのだけど、多くても12キロカロリーとか、こんだけ疲れてるのにそんなわけあるかと思ってた。笑

 

こないだ蕎麦打ちを習ったときにも、打ち終わったときには魂が抜けるように疲れ切ってたし、キリムも時間を忘れて何時間も織り続けて、気がついたらグロッキーなんてことがよくある。

 

「打ち込む」とはよく言ったもので、最近は何をやってもものごとに打ち込んでるというか、手加減なしに没入してるところがあって、自分でもすごいなと思う。そこまで没頭できることが幸せでもあり。

 

歌がそうだったように、このパターンに入るとメキメキと上達するのを知ってるので、和太鼓も蕎麦打ちもこの先が自分でも楽しみなのですな。魂を込めるこの感覚が心地よいし、そういうものに出会えてることが嬉しい。

 

負荷が高くてそのときは一つ一つしか出来なくても、筋トレみたいに日々続けることで、やりたいこと全てを同時進行できるようになると思ってるし、だから色々とちょこちょことやってる。ちょこちょこでも、やるならすべて全力で。それが篠田幸二の良いところのような気がする。

 

それにしても、からだが痛い。笑

………

 

写真は、昨日の練習風景。大太鼓の下から撮ったもの。

 

2024/0723 たわいもない話、たわいもある話

最近心がけているのは「たわいもない話をする」こと。放っておくとついつい真面目な話ばかりというか、人間どう生きるかみたいなことばかり話してしまうのです。どうすればより良く生きられるだろうか。私はなぜそう感じるのだろうか。

 

たとえば「お風呂がめんどくさい」みたいな話題でも、どうしてめんどくさいと感じるのだろうかとか、そもそも毎日お風呂に入るようになったのはいつからなのかとか、みんなが入らなかったらそもそも入らなくて済むよねとか、真面目に考えすぎてしまう。探求グセ?とでも言いますか。

 

その探求グセもたまにだったら面白いし、タメになるような気もするから良いのかも知れないけど、それが常時ともなると自分でもめんどくさかったりする。「お風呂ってめんどくさいよねー」くらいで良いようなライトな場面でも、いちいち考えてしまう。余計なことを言ってしまったりする。

 

この日記を書いてて自分でも「考えすぎじゃね?」と感じることが多々あるけど、それが性分というか、心地よいのでやってるわけで、自分ごとで済んでればそれで良いのですね。

 

ただこれが、だれかの悩み相談だったりすると、ちょっと面倒なことになるというか、なったというか。「〇〇な自分を変えたいんです」なんて聞くと、勝手にお悩み解決じゃないけど、分析して、どうすればいいのか、その具体的な方法を考えてしまう。その上、余計なアドバイスをしてしまったりもする。

 

いわゆる男性脳的な反応をしてしまうのだけど、話を聞いてほしい、共感して欲しい女性脳的な立場からは、嫌がられるわけです。そんなチグハグなやりとりをこれまで30年以上やってきて、気をつけるようにはなったし、なのでずいぶん減ってはきてるけれど、たまに解決太郎が顔を出す。およびでないアドバイザーが。笑

 

基本的にはアドバイスしない、話の中で思いついた解決方法は、あくまで自分の糧にする。そんな風にして、うまくやってきたつもりですが、相談されたと感じると、ついつい言いすぎてしまうのですね。

 

実際、言葉としても態度としても、相手から明確に悩み相談をされてる場合にも、自分とおなじように考えてしまうと、そのアドバイスが重すぎるというか、そこまでのは求めてないです、ってなってるように思う。反応を見てると。

 

ぼくがストイックと言われるのはそういうところかなと思うけど、自分のダメなところ(ダメだと思ってるところ)嫌いなところを見つめて改善していく、もしくは受け入れていくのは楽しいのです。自分がより好きになる。

 

ただ途中過程では、とてもシンドイことが多いので、あくまで自分で選んでやってることだけども、どうしてるか聞かれれば答えてる。大体の方法はラクじゃないというか、コツコツやってやっと少しずつ変わるようなものなので、その反応はイマイチだったりするけども。即効性を期待しててガッカリする、みたいな。

 

アドバイスする→嫌がられるの繰り返しで、基本的には何も言わなくなったし、かなり気をつけてるつもり(そもそもそのアドバイスも自分の成功体験でしかないから、効果は定かでない)だけど話の流れで、うっすらとでも自分の考えを押し付けるような形になることがあって、だったら、そもそもそういう

話題はやめておこうというのが「たわいもない話をする」の意味なのですね。ここまで長かった。

 

共感し合えるのが楽しい話をしたい、と。

 

合ってるか間違ってるかどうかはさておき「自分はどう生きるか」みたいな話が好きだし、他人のそれを聞くのも好き。人生観を知るみたいな。でもみんながみんなそういう話が好きなわけではないし、そんな話ばっかりだったら自分も息が詰まる。話が重くなりがち。

 

だから「たわいもない話をする」のを意識してるわけだけど、たわいもなさって人によって違いそうですよね。明日の天気どうだろうとか、カップ麺はこれが好きとか、こないだのレースのあの馬は強かったとか。自分にとってはそんな感じ。テレビを見なくなって3年くらい経つので、芸能人がどうとか、野球がどうだとかは、だんだん分からなくなってきてる。

 

共通する「たわいもない話」が少ないというのも、話題が「人間どう生きるか」に寄っていく原因かもしれないですね。音楽の話になっても、ハードロックとメタルに偏ってるから、B'zくらいしかないし。

 

たわいもない話をするために、世間の人が興味持ってるものに興味を持ってみる、やってみるところから、なのか。こんなことを考えてること自体が、真面目というかストイックな気もしますが、そういう性分ですので。笑

 

自分にとって「たわいもある話」が、だれかにとっては「たわいもない話」かも知れないし。その逆もまた。たわいもない話というのは、それ自体ぼんやりとした存在なのですね。線引きは人それぞれ。

 

たわいもない話について掘り下げてみたら、たわいもない結論に達するという、たわいなさ。笑

 

まあ書いててどうでもよくなってきたところで、今日はおしまい。その意味の無さを感じるために、長々と書いてきたのかも知れないですね。

 

ただ会話を楽しみたい、コミュニケーションを楽しみたい。それが今の自分の望みなのかも知れません。というわけで、絶賛練習中なのであります。

………

 

写真は、たわいもないを調べたWebページより。類語は「とりとめのない」「取るに足らない」