夢拾い日記

夢拾いしながら感じたこと、思いついたことを綴っています。

2024/0725 否定的な生き方が好み

自分が書いてる日記を読み返すと、ここ最近はとくに否定的なもの、ネガティブな記事が多いなと感じる。どちらかといえばネガティブ寄りの人間なので、大して気にはしてないし、ポジティブにしようとも思わないけれど、客観的に読むとちょっと荒れてるというか、シリアスな印象がある。

 

面白いのは、それが行き過ぎるとからだも強張ってくるし、疲れが溜まりやすくなってくる。経験上、そんな感じ。世の中のこれが良くない、自分のここを直したい、あの出来事にはどういう意味があるのか。そんなことを思い悩むうち、どこかでピークが訪れて「もうどうでもいいや」「まぁ、いっか」ってなる。張り詰めた緊張が一気にほどけるように、堰き止められたダムから一気に放水されるように。

 

ネガティブを突き詰めていくと、どこかでポジティブに反転するのを知ってるからこそ、安心していつものネガティブな暮らしを楽しめるわけです。ネガティブな面ポジティブな面、ともに自分の中にあって、それを波のように行き来してる。

 

いつでも明るく元気なポジティブになろうとしたときもあったけど、やっぱり性に合わなくて、無理が生じてしんどくなった。ネガティブベースで日々を過ごしながら、たまに訪れるポジティブなピークを楽しむ。そんなのが自分には合ってるかなと。人間大なり小なり、躁鬱病的なところがあると思ってる。

 

今朝起きたくらいに、その鬱というかネガティブなのが底を打って、ポジティブな方へと切り替わったのを感じてます。ごみを捨てる人のことを考えてばかりいたのが、急に花を愛でたくなる不思議。人間、いつまでもネガティブに留まることはできないのでしょう。

 

加えて、夢拾い終わりの自撮りの表情も、どこかすっきりしてるように見える。あの自撮り、意外と役に立ってるんですよね。それと、とある人には「ブランディングできてる」と褒められました。たしかに、ごみの入ったトートバッグとトングを片手に、同じ構図で5年近く自撮りし続けてるわけで、ひと目見ればぼくの投稿だと分かりますよね、あれは。笑

 

全然狙いはなかったけど、結果的には多くの人に覚えてもらえてるなと思う。印象付けること、他の投稿の中でも目立つこと。それができてる。たまたまなのか、そういうのが好きなのか。ボランティアみたいなのばかりやってるけど、そういうビジネス目線の自分もたしかに居て、その部分が好きだったりもする。

 

ビジネスに興味はあるけど、お金を稼ぐのにはあんまり興味はなくて、そのシステム作りが好きなのかなと。自分ではそう分析してます。絵を描いて売る、書を売る、講演会をしてお金をいただく、弾き語りをしてお金をいただく。ごく小さなものだけど、そんなビジネスをいくつもやってみたし、実際お金もいただいてきたけど、その流れを体験できると、途端に興味がなくなるという。続けたらうまくいくよと言われても、本人にその気がないから、どうしようもない。笑

 

ネットショップも色々やってみたし、クラファンみたいなのもやってみたし、どれもある程度成果を上げるものの、そのあとが続かない。お金というのはモチベーションにならないのかも知れません、ぼくの場合は。

 

お金にならないものの方がユーザーが少なくて、その先を知る人も少ない、未来が見えにくい。それが楽しいから、ボランティアみたいなことが好きな気がします。続ける人がいないからこそ燃える、的な。お金になるものには参入者がたくさんいて、それはそれで競争で燃える人もいるけど、それは好みじゃない。ボランティアが良いからやる、というより単に好みの問題かなと思ってる。

 

ボランティアをビジネスの宣伝的にやってる人もいるし、ビジネスで稼いだものをボランティア活動に投資する人もいるし、それは単純に分けられるものでもないように思う。またなんの話かわからなくなってきたけど。笑

 

どうやら、いつも考えてることの一つに「ものごとはそんな単純に分けられない」というのがあるようで。度々こういう結論で締め括ってるような気がする。ポジティブもネガティブも、躁も鬱も、ボランティアもビジネスも。どちらか片方だけってことはなくて、だからこそどっちが良いとか悪いとか論じたところで意味はないなと。

 

好みでどちらかに偏ってることはあるから、そんな自分の好みを知って、同時にその反対側、好みじゃない方の良さも認識していく。そんな風に真ん中に歩み寄りながら、今の自分がどうしたいかをまた選んでいく。そうやってなるべく偏らずに歩いていく人生が、自分としては楽しいと感じてる。それもまた好み、ですけどね。

 

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写真は、今朝の自撮り。はじめのうちは笑顔を作ってたけど、無理してる気がしてやめた。