夢拾い日記

夢拾いしながら感じたこと、思いついたことを綴っています。

2024/0722 休業中のマクドナルドとSNS

うちの隣にあるマクドナルド。システム障害(マイクロソフト関連?)によって営業できないようで、ここ4日間閉まったまま。これだけ休業してるのは記憶にないですね。夕方には学校帰りの学生でいつも賑わっていたので、この静けさがちょっと不思議な感じ。

 

ここのマクドナルド、ぼくが生まれたときにはあったようなので、もう40年は経っているという。じつは老舗だったのですね。昔はよくハッピーセットみたいなのを食べてた記憶があります。おもちゃとパンケーキ。あとは朝マックのソーセージエッグマフィンも好きやったなぁ。あれは異様に中毒性があるというか、あれじゃないと得られない味がある。笑

 

全く野菜感はないし、まさに化学の結晶という感じだけども、いまでもふと食べたくなる魔性の食べ物。それとチキンタツタもよく食べてた。すぐに出てくる他のハンバーガーとは違って、オーダーしてから10分くらい待ってたように思う。だからアツアツの出来立てを食べられるのを、子供ながらに知っていたのですな。

 

最近ではほとんど行ってないけど、無いとなんだか寂しいお店。子どもの頃によく通ったお店、近くの馴染みのお店がマックというのが、なんだか面白い。そもそも隣にマックがある家って。笑

 

早く営業再開できるといいなと思う。

 

さて。蕎麦打ちを習いに行ったりで、あちこちと忙しく楽しんでた先週。親しい友人と話す時間もたくさんあって、自分なりにいろいろと整理できました。蕎麦打ちについてはまた書こうと思いますが、材料がシンプルゆえに各工程のシビアさが際立ちますね。レシピよりも腕の世界。

 

蕎麦打ちは今年やりたかったことのひとつ。無事達成であります。あとは陶芸か。

 

以前は、楽しかったことをできるだけSNSにアップしようと思ってたけど、そのために写真を撮るのが億劫になってきたので、だんだんとアップしなくなってきてる。「楽しかった」「美味しかった」みたいな、言葉にするとその感動が陳腐になるのもあんまり好きじゃないようで。

 

誰に見せたいのか、なぜ見せたいのかを突き詰めていくと、どこか自慢が混じっているのも引っかかるし。そんなわけで、非日常の様子を投稿することは確実に減ってる気がします。

 

まずその場にいる人と楽しむ、感動を共有する。SNSでの共有はあくまでオマケ、ぼくを知ってる人との話のタネにする程度。それくらいが、今のぼくにとっては心地よい距離感なのですね。

 

ネット上の共有がメインになると、心ここにあらずで、その場にいる人たちとの感動を共有できなくなってる部分(瞬間)があったので、それじゃイカンなと。主はあくまで、いまここ。

 

そんなのもあって、ひとの投稿を見ることも減ってるかなと。リアルで会う人と、あとはネット上でもある程度交流のある人。そういう人たちの投稿を中心に見るくらい。温度を感じられるところまで情報を狭めている、とも言えるかも知れない。

 

とはいえ、ネット上で知り合った素敵な人もたくさんいるし、そこからリアルな友人関係を築けてることも多々あるので、SNSを否定はしないまでも、距離感には注意が必要だなとは思ってる。

 

マックのマフィンのごとく、やっぱり依存性は高い。安くて美味しいからと、つい食べすぎてしまうと、心身のバランスは壊れる。だから「ほどほどに」と言うは易しだけど、魔性のものゆえ、距離を取りすぎるくらいでちょうど良いかと。それくらいの引力がありますから。

 

SNSには「褒められたい」「認められたい」「貶したい」「現実から目を逸らしたい」その他いろんな成分が含まれているからこそ、これだけのユーザーが常習してるのでしょうね。ほぼ全世界が依存症。さすがテレビの後釜やな。

 

書きはじめたときには思いもしなかった、今日の着地。笑

………

 

写真は、隣のマクドナルドの貼り紙。びりびりなのが気になる。

 

 

2024/0716 キリム教室と行列のできるラーメン屋

今日はキリム教室。先日完成した大きなキリムを見せびらかしに。笑

 

さっそく先生に写真を撮っていただいたので、よかったら見てください。教室はトルコの雑貨も置いているお店の一角でやってるので、やっぱり雰囲気が違いますね。ここで、このキリムとのツーショットを撮りたかったので、木枠はそのままにしてあったのです。じつは。

 

木枠から外した後、どうするかも先生と相談してきたので、ボチボチ最後の仕上げをしよう。釘から外して、端を結んでフリンジに。表面の毛羽立ちをバーナーで焼いて、水洗いして、干したら完成です。もう少し見せびらかしたら、やりますよー!

 

どうでもいいですが、フリンジと入力したら「不倫時」と変換されましたよ。どのタイミングで使うんや、この言葉。「今日はこのあと不倫時です」とか「この大事な不倫時に何してるんや」みたいな。使い方がようわからん。笑

 

帰りに教室のお友達とラーメン屋に。以前に一度行ったことのある、行列のできる人気店なのですが、外に待ってたのは一組とお友達だけ。こりゃ早く入れそう、と思って車を停めてお店へ。が、どうやら呼び鈴システム(順番が来たらアラームが鳴る)になったようで、じつは10組待ちだったという…。みんな車の中で待っていたのでありました。ちょっと騙された気分。

 

店内はそれほど広くなくて、10席ちょっと。これで10組はなかなか厳しいぞということで、帰りの時間も考えて、今日は食べずに帰ることに。不食の直帰。またの機会に。

 

帰り道に思ったのは、昔のラーメン屋ってこんなに並んでたかなぁと。そもそも並んで食べるのがそんなに好きじゃないというか、並んでしまうと期待ばかりが膨らんで、ようやく食べたときに美味しくても「ああ、こんなもんか」ってなりやすい。「あんなに並んだのに」と、つい辛口評価になってしまうから、極力並ばないようにしてる。

 

こんなだから、並んで食べた記憶がほとんどないのかも知れないけど、最近はどこの飲食店も並んでる気がする。もしくは予約してないと入れない、みたいな。ふらーっと入って「なかなか美味しいやん!」みたいな、ガチャガチャ的楽しみが減ってる。

 

食べログみたいなレビュー全盛の時代ゆえに、食べる前にもうある程度の安全が確保されているというか、評価の高い美味しいお店にしか行かないようになってますよね。だから先のガチャガチャ的な、ある種のギャンブルは必要ないわけです。失敗がない、リスクが小さい。

 

ぼくもレビューを見て選ぶことが多いので、その恩恵に預かってるわけですが、これも良いことばかりじゃないような気がしてて。レビューの多い評価の高い店にお客が集まるとなると、そこは待つことが必然となるわけで。行列必至。お客が多いので、さらにレビューは増えて、またそれを見てやってくる。どんどん混む。お店としては悪循環なわけです。

 

で、たとえば近くにラーメン屋があっても、そこのレビューが少ないもしくは評価がイマイチであれば、鞍替えしてそこに行くようなお客は少ない。昔だったら「並ぶくらいならあそこのお店試しに入ってみよう」みたいな、チャレンジがあったはずだけど、レビューが見れる今日では、あらかじめリスクを回避できてしまう。

 

リスクとは言ってるものの、その少ないレビューの低評価もあくまで「その人の評価」であって、その人の口には合わないけど自分には美味しい、そんな可能性は残されてる。でも試さなければそれも分からないまま、長くなる行列に並び続けるのみ。レビューで分かったつもりになっての「食わず嫌い」が増えてるように思います。自分も含めて。

 

行列店とそうじゃないお店の差が大きくなると、かたやヒマなお店は潰れていくし、それでさらにお客が増えた行列店は限界を迎える。パフォーマンスが下がるか、もしくは営業日、営業時間を絞ってくる。後者の場合、さらに入るのは困難になる。

 

でも、周りにあったそこそこのお店はもう無くなってるから、もう行くところがない。なんてことが日本全国、至るところで起きてるように見える。肌で感じてる。行列店か、チェーン店かの二択。

 

これは飲食店に限ったことでもなくて、商品でも一緒。Amazonで買うにしても、星が多くてレビューの良いものを選んでるから、ほかのを試す機会がなくなってきてるのを自分でも感じる。みんなが同じものを使うようになって、他の選択肢が淘汰される。そうやって大きな企業に一極集中する怖さもある。

 

難しいことはさておき。いつもレビューを参考にするんじゃなくて、たまにはフィーリングでふらっと入ってみる、ジャケ買いしてみるのも、面白いんじゃないかなと。そうやって自分に合ったものを見つける、新しいものとの出会いも大切にしていきたいなと思うわけです。

 

意識的にやらないとレビューに流されやすい、そんな時代だからこそ。そのほかの選択肢を残すためにも。

………

 

写真は、キリムとのツーショット。作ってる最中はとても大きく感じたけど、完成してみると案外小さい。

 

できたことが、自分にとってなんでもないように感じることが、じつは成長してる証なのかも知れない。

 

2024/0715 アイスコーヒーのフタ開けにくい問題

今日はひさしぶりに、夢拾い中のつぶやきメモから。

 

◎アイスコーヒーのフタが開けにくい

 

これからの季節というか、もうだいぶ増えてきてるコンビニのアイスコーヒーのカップ。飲み終えたものをそのまま路上に立てて置いてある(捨てていく)わけですが、氷が入っているので、溶けて水が残るんですね。なので、それを捨てて袋に入れるのだけど、最近のカップはフタがきっちり閉まってて、なかなか開かないからめちゃ捨てにくい。

 

とくにセブンイレブンのは、まあ開きません。お客としてはこぼれなくていいけども、拾う方からすると、開きませんのはあきません。笑

 

フタに指をかけて、ぐっと持ち上げれば開くには開くんですが、水滴がついてたり、開ける時にこぼれたりして、軍手が濡れるのは嫌なのです。だから大抵は下に置いて、足で踏んで開けようとするのだけど、ひどい場合にはフタが付いたまま潰れて、余計に中身が捨てにくくなったりする。

 

どんだけきっちり閉まってるんや、と企業努力を恨みつつも、仕方なく手で開けるようになってきました。横着すると余計に仕事が増える。これが一つ二つならまだしも、結構な頻度で落ちてると、さすがに萎えますね。これに似たパターンで、ペットボトルの飲み残しも結構イヤ。めんどくさいし、中身が傷んでそうなミルク系のものは吐き気がする。苦笑

 

ついでに書くと、缶コーヒーもしくは缶チューハイがほとんどの、たばこをINした缶がとても嫌です。嫌いなごみランキングで言えば、常にトップ3に入る「ごみ3(スリー)」です。振っても振っても出てこんし、持ち歩いてる小さなマイナスドライバーでほじくるにしても、残った液体に溶けた感じが「おえっ」となる。

 

それならもうそのままで、吸い殻が入ったままでいいかとも思うけど、異物が入った缶やペットボトルはリサイクルできない、みたいなのを何かの動画で観たので、できれば取り出したい。まあ、あんまりひどいの(何本も入ってるようなの)は、可燃ごみにしちゃってますけど。

 

真面目にやりすぎるのも疲れるし続かなくなるので、ある程度でボチボチと。

 

こういうとき意識してるのは「そもそも拾ってるだけでプラスである」ということ。ずっとやってると忘れがちだけども、拾ってない頃と比べれば、拾うようになっただけで自分としてはプラス。まずは拾うことだけで十分で、その先のこと、分別だったりはできる範囲で。ムリをしない、自分を責めない。

 

初心忘るべからずじゃないけど、ごみを拾えるようになったこと、やりたいことができてる今の自分を認めていくのは、続けていく上で大切なことだと思う。なんの話だったか忘れてしまった。笑

 

◎傘が安すぎる

 

雨上がりに拾いに出かけると、かなりの数の傘が落ちてます。強風で折れたもの破れてるもの、使えない傘もあるけど、大部分はまだ使える傘なのです。捨ててあるというか、忘れてあるというか。想像するに、雨が上がって持ち歩くのが面倒になったのかなと。

 

忘れたにしろ面倒になったにしろ、傘がもっと高価だったなら、もっとその扱いは良くなると思う。もし5000円する傘を忘れたなら探しにくるだろうし、多少傷んでても修理して使うだろうし。

 

でも現実には100均にまで置いてあったりして、ごく安く簡単に手に入るわけですね。安く簡単に手に入るから、簡単に捨てるし大切にもしない。悲しい話ですが、捨てられてる(置き忘れられた)傘を見てるとそう感じるのです。

 

結局のところ、現代人が大切にしてるのはお金、なんだろうなと。高いものは大切にするけど、安いものは容易に捨てる。使えるものを拾うたびに、そんなことを思うのでありました。

 

高くても安くても、それこそ無料でも、変わらずものを大切にできるのがいいなと思うし、自分はそうありたい。空気とか水とか、無料のものは必要不可欠だから無料なのでは。

 

ごみの話となると、つい真面目になりがちですな。笑

………

 

写真は、セブンイレブンのアイスコーヒーのカップ。氷が溶けた水が残ってる。

 

2024/0714 ハードロック野郎

ここ最近ギターの弾き語りをアップロードしてますが、和太鼓叩いてたりキーボードが楽しかったりで、そういえば全然歌ってないやん!ってことで、リハビリも兼ねて衝動的に始まったわけであります。

 

久しぶりに歌ってみると声が出にくくて、とくに高音は詰まったような感じになる。地声と裏声の行き来が引っかかるから、少しずつでも毎日歌うのって大事だなと思った。ご無沙汰のアコースティックギターもどこかよそよそしく、意思疎通が取れてないから、声と分離してる感あり。ほったらかしにされたら、そりゃギターも拗ねるわな。すまん。

 

そんなわけで始めた「うたってみた」動画ですが、ずいぶん前にも上げていた(とくにコロナ禍の真っ只中は)けど、いつしか辞めてしまった。続かなかった理由はいくつかあるんだろうけど、ある程度完成させてからじゃないとアップしたくない完璧主義なところと、新しい曲を覚える負担(そのときの流行曲だったり)があって、その二つが大きなハードルだったのかも知れない。

 

それでもやる気があるうちはいいのだけど、モチベーションが下がってきた時にそのハードルは大きな障壁となって、目の前に立ちはだかるのですね。大して頑張り屋でもないぼくは、大変だったら容易に辞めてしまうから、そりゃ続かんわなと。壁は越えるよりも、横をすり抜ける派。笑

 

観てもらうのを意識してたから「完成度」と「みんなが聴きたい曲を」ということ大事にしてたけど、今回は自分の練習がメイン。もちろん適当にはやらないけど、やってることをただ観てもらう、観たい人だけが観て喜んでくれたら幸い、くらいのスタンスでやろうと思う。

 

見せるためにやるのか、やってることをただ見せるのか。

 

SNS全盛のいまは、ここがポイントかなと思ってる。見せるためにやるのであれば、ある程度流行を追うカタチになる。流行りの曲を練習してるうちにもう次の流行へと移ろっていた、なんてのはこれからさらに増えていきそうで、とてもついて行けそうにない。「昨日の流行が今日は時代遅れ」くらいの勢いあるよね、TikTokなんか見てると。

 

その流行りの歌が好きだったらまだいいのだけど、さして好きでもない、でもみんなが見てくれるから、いいねが欲しいから、インプレッションを稼ぎたいから。そんな理由でやると、なかなかの虚しさが押し寄せてきそうな今日。

 

なにをやってもムダはないし練習にはなるけども、モチベーションの維持および心の平和という点では、ちょっと危うい。

 

とまあ、ごにょごにょ言ってますが、自分としてはもう流行は追わないし、あくまで「やってることをただ見せる」だけにしようと。というわけで、これまで歌った曲を歌詞カードで振り返ってみた。そしたら、出るわ出るわB’zの曲が。笑

 

こうして今歌ってるのも、B'zのCDに合わせて熱唱するのが楽しかったから。だから今もB'zはほぼ全曲歌えるし(最近の曲を除けば)、彼らのルーツを辿って洋楽、ことハードロックを聴き始めたので、B'zがいなけりゃここまで音楽が好きにはなっていないと思う。ギターを始めたのも松本さんの影響だし、音楽の楽しさを教えてくれたバンド。

 

そんななので、我がレパートリーはB'zおよび洋楽のハードロックで8割以上が占められております。かなりの偏食家で、いいねを広くもらえるメニューではありませんが、一部には深く刺さるような気もしてます。あ、ヘヴィメタルもありますよ。

 

(余談ですが、ハードロックとヘヴィメタルは合わせてHR/HMと表記します。ヘビメタは厳禁。ぜひメタルと呼んであげてください。笑)

 

とりあえず、B'zを中心に洋楽HR/HM、のほぼハードロック一辺倒でお送りします。たまにJーPOP。

 

好きな方のために補足しておきますと、80年代のいわゆる産業ロックが好きです。ナイトレンジャー、ヴァンヘイレン、ミスタービッグ、ジャーニー。あとメタルはジャーマンメタルが好き。ハロウィン、アングラ。ギターの音色はゲイリームーア、レイヴォーン。

 

とにかく好きなことだけやって、それを好きな人が喜んでくれたら最高ですね。

………

 

写真は、ステージでメタルを熱唱してる様子。もう8年前だった。

 

2024/0713 さくらももこ展に行ってきた

ブログっぽいタイトル。笑

 

昨日は名古屋へ行ってきたのだけど、なんだか体が重く感じた。栄の方はとくに。久しぶりの人ごみだから、というのもあるかも知れないけど、にしても変な感じがしたな。帰ってからも肩が痛かったし。電磁波の影響ってさほど気にしてないつもりだけど、こういうのがあると疑ってしまうよね。一因としてはあるのでは。

 

名古屋でパスタ屋の店長をしてた頃は、ほど近い新栄に住んでたので、よく栄には行ってたけど、ここまでじゃなかったような。もう10年くらい経つから変わってるのもあるし、当時は住んでたから麻痺してただけかも知れないし。で、結局のところ「気のせいかも知れない」の範疇なのですが、もう住むのは厳しそうな気がしてしまった。

 

別に都会アンチというわけでもなく、名古屋も栄も好き。でも変な感じがしたっていうのは、自分の中では大きな意味があるかなと。行っても短時間で、用事だけにしよう。そうしよう。

 

さてさて。なんの用かといえば、さくらももこ展で名古屋へとやってきたのでありました。じつはちびまる子ちゃんは、我がバイブルであります。笑

 

姉が読んでた「りぼん」で知り、その面白さに衝撃を受けまして。それからというもの、りぼんは欠かさず読んでたし(うちに置いてたのをちびまる子ちゃんだけだけど)、ほどなく放送開始となったアニメも毎週見てた。単行本を何度も読み返しては、親友と「あの話のここがウケるよね」っていつも話してたなぁ。ぼくのお笑いのベースはここにあると思う。

 

ささいな日常も、よく見れば面白い。人生楽しめるかは、ものの見方次第。今のぼくの価値観に多大な影響を及ぼしているのですね、ちびまる子ちゃん

 

以前、東京の方でコジコジ展を観て、今回は満を持してのさくらももこ展。ちびまる子ちゃんがメイン。これは行かなイカンだがや〜、と名古屋弁混じりにやってきたのでありました。母親も誘って二人で。

 

 

本になる前の実際の原稿を見られるのが嬉しい。とくに、単行本の表紙になってる扉絵の原画を見ると、その繊細さと色の鮮やかさ優しさが素晴らしい。写真では伝わらない、本物が持つ空気感に触れられるのがなお嬉しい。

 

さくらももこの書くエッセイも好きで、その実際の原稿を読めたのもよかった。どこを手直しして、本になってるのかを見ると、最初から上手に描けてる(書けてる)わけじゃないんだなと。そういう過程を知らないと、ついつい天才で片付けてしまうけど、人一倍手を動かしているのを感じた。だから自分もやろう、と思った。

 

基本、館内は撮影禁止。で、ここからここまでは撮影OKという場所があったのだけど、印刷したものやオブジェみたいな、なんというか、作者が触れていないものに限られていたのがちょっと残念だった。一枚でいいから、原画と撮影できたらファンは喜ぶと思う。自分はそうだから。

 

最後にグッズ売り場があって、せっかくだから何か買おうと思ったけど、結構高い。というか、だいぶ高い。笑

 

名場面のアクリルキーホルダーみたいなのも売ってて、「あ!あのシーンないかな?」と思い浮かんだものは一つもなかった。なぜこの場面?ていうのがほとんどで。ファンは同じような意見じゃないかと。笑

 

作者自身、もう亡くなられてるから仕方ないのだけど、総じてグッズにはそのセンスが感じられなくて残念だったかな。色合いだったり素材感だったりが、なんか違うんだよなと。あくまで個人的な感想にはなりますが。

 

この個展の図録と、ここで初めて存在を知った「ちからっ子の常識①」なる本を買って帰りましたとさ。いやはやこの本がヤバかったので、そこから数点ご紹介いたしまして、今日はおしまい。

 

…と思ったのですが、著作権の都合、表紙のみのご紹介としました(アップロードしたものの、調べてみたら×→消しました)

 

 

ファンゆえに厳しい意見になってしまったことを、お詫びいたします。笑

2024/0711 夢拾いをはじめた頃

今朝は雨が降ってたので夢拾いはお休み。で、一日オフの日だったのだけど、さっきiPhone歩数計を見たらば「600歩」こりゃいかんということで、夜の散歩に出かけることに。

 

家を出てすぐ、明日朝の天気が気になったので調べてみると、降水確率は80%…となると、明日も夢拾いは難しい。てなわけで、一旦家に戻りトングとバッグを手に散歩がてらの夢拾いへ、夜の街へと繰り出したのでした。

 

一日平均8000歩を目標に歩いておりまして、そうすると大抵は調子が良いわけです。いつも夢拾いを終えた朝には4000歩を数えるので、それだけで目標の半分を達成できるのですね。健康にとっても、お得なルーティン。

 

そういえば9年前に始めた頃は、ずーっと夜に拾ってました。3〜4年はそうでしたね。なんだか見つかるのが恥ずかしくて。良いことしてる風に見られるのが嫌だったのかなと思う。実際、良いことだからと始めたくせに、そう見られるのは嫌という、なんとも面倒臭いヤツでありました。偽善だと思われたくない、みたいな。

 

それでイヤホンをつけて、ハードロックをガンガンに聴きながら、散歩してるだけ、って感じで歩いてた。「目についたから、たまたまごみを拾ってるだけだぜぇ」なんてスギちゃんみたいになりつつ、自分なりには尖ってたつもり。ロックなんだか真面目なんだか、ようわからん反抗期。笑

 

あと挨拶するのが嫌だったのもあるかも知れない。すれ違って目があったら、挨拶しなきゃいかんやん?(って、そこが真面目なんやけども)それが嫌で、だったらイヤホン付けてたら、たとえシカトしても「あー音楽聞いてるんや」って分かるかなと。

 

やってみると分かりますが、ごみを拾うのって案外目立つのです。とくに街中だと、みんなが歩いてる中で急に立ち止まって一人かがむわけで、そりゃ見ますよねって話で。偽善だと思われたくないけど、ごみは気になるから拾いたい。でも挨拶はしたくないから、なるべく目立ちたくない。あぁ、ややこしや。

 

さすがに今は慣れましたし、むしろ積極的に発信してるくらいなので、あの頃のぼくからしたら「イカれてるヤツ」なのかも知れません。笑

 

夜に拾ってると、いつも始めた頃を思い出すのだけど、ひとって変わるもんやなといつも思う。毎日の投稿を自分で見てると、さして変化はないんやけど、それが積もり積もって、気がつけば大きく変わってる。

 

人目を気にせず、好きなだけごみを拾ってる。街も着実に綺麗になってる。なりたかった自分に近づいてる。そして、いまが最高の自分やなと。

 

9年前に始めた自分にありがとうと言いたい。

………

 

写真は7年前、月一で仲間と拾ってた頃。

 

2024/0710 正しさと怒り

今朝はとある投稿を読んで思うところがあったので、それについて。

 

その投稿というのは、コロナワクチンに関する夫婦の考え方の相違。その害を知っていながら止めなかった旦那を責める奥様のツイート。あえてまだツイートと書く。笑

 

以下コピペです↓

 

ワクチン被害者の数を見て

「うわぁ〜。誰が責任とんねん」と呑気に言う旦那に

 

「止めれる立場にありながら、

(会社で)ワクチン接種をすすめる義兄夫婦を止める事をしなかった貴方は加害者やねんで」

と言ってやった。

 

加害者だと言った事が気に入らない様で少し言い合いになったけど。

私は本気でそう思ってる。

 

「人それぞれいろんな考え方がある」

「自分は打たない、家族にも打たせない、それでええやん。」

当時、さも常識人の様に上から

私を宗教だと馬鹿にしたけど。

 

そういう人の事を私は加害者だと思ってる。

黙って見過ごし、止めなかった人達は

ワクチン接種事業に関わった人達と同じ加害者です。

 

(引用終わり)

………

 

これを読んで、昔の自分みたいやなぁと思った。声を上げなかった人を責めてたから。だけどそれじゃ、どんどん人が離れていくだけだった。だからぼくはワクチンに関する発信をやめた。

 

この話は命に関わることで善悪がより強調されがちなので、少しライトなごみ拾いを例に考えてみます。その方が見えてくることがあると思うので。

 

以下は、先のツイートに対するぼくのコメントをまとめたもの↓

 

2〜3年前、ムキになってごみを拾ってたとき。

 

ごみを捨てる人はもちろん、拾わない人に対しても文句を言ってた。

 

ひどくなると「拾ってるけど、その量が自分より少ない人」にまで噛み付く始末で。

 

拾わないけどポイ捨てしない人のどこが悪いのか?分からなくなって、ムキになってやるのをやめた。

 

自分が正しいと思いすぎてると、自分とおなじくらい「それ」をやってない人はみんなダメ、ということになってしまう。

 

それで物言いが強くなって、言葉に棘が出てきて、喧嘩になる。しだいに人は離れていく。

 

「それ」を想う気持ちはおなじだったのにもったいないなと思う。

 

ごみを拾ってるのは、綺麗にしたいから。

 

ごみを拾ってなくても捨ててない人は、それだけで綺麗にしてくれてるのとおなじ。

 

そして、ポイ捨てを減らすには「捨てる人」と話しをしなきゃ意味がないってことで、

 

そのとき自分の正しさは邪魔になる。だから、なんとなく適当にやるようになった。

 

正しさを握ってる以上、どれだけ隠したところで、ある種の軽蔑が滲み出てる。

 

だから相手には伝わらない。

 

(ここまで)

………

 

最後のフレーズに言いたいことは凝縮されていますが、正しさは結局のところ、障害にしかならないなと。

 

正しい(と感じてる)ことを本当にみんなに伝えるつもりなら、自分だけが正しいという気持ちは次第に弱まるはずで。

 

ほかの人の「正しい」を聞いて、そういう考えもあるのかと緩んでいくというか。正しさの器量が大きくなるというか。

 

いつまでも尖った正しさを握りしめてるというのは、それを使ってだれかを攻撃したいだけなのかなと。伝える気があるのなら、その先端は丸くなるはず。

 

この投稿の主を否定したいわけじゃなくて、近い考えの人同士で傷つけあってることって多々あるよなぁと思っただけ。それはもったいないと思うから、なんとかならないかなぁと、とりあえずコメントしてみた。

 

余計なおせっかいのような気もするけど、投稿主だけでなく、読んでる人の中でだれかにヒットすればいいなと。自分の苦い経験が役に立てば。

 

まあやっぱりおせっかいです。笑

 

そんな流れで「怒り」についても考える朝だったので、そのツイートもまとめてみました↓

………

 

ぼくの普段の投稿を読んでない人に限って、ポイ捨ての写真に「許せないですよね」って、怒ったようなコメントをする。

 

投稿を読んでどう感じるかは自由なので尊重はするけど、同意を求められるようなコメントはなんだかなぁと思う。

 

怒ってるときは怒ってるように、正直に書いてるつもりだから、そう書いてないときは、基本的に怒ってないです。

 

なので、その怒りはあなたのもの。

 

こっちに持って来られても、受け取りはしませんのであしからず。

 

(ここまで)

………

 

拾ってるときに声をかけてきて「ポイ捨てするやつ、許せないよな!」って、ずっと付いてくるオッサンが居た(あえてオッサンと呼ぶ)

 

こんなやつは許せないとか、この国はどうなってるんだとか、いろいろ怒ってはこっちに同意を求めてくる。

 

まだそのころは上手くいなせなかったので「あ、はい…はい…」なんて答えてたら、怒りながらずっと付き纏ってくる。めっちゃ邪魔。というか、そう思うならオッサンも拾えよ!と心底思った。笑

 

自身が怒ってるもんだから「あなたも怒ってるはずですよね?」「ごみ拾いしてるから当然怒ってますよね?」みたいなのが、もうめんどくさい。

 

以前はそうだったけど、いまは違うぞ。そういえば、最近はそういうオッサンに出会わなくなったかも。あんまり怒りがないからかな。逆に言えば、自分の中に秘めた怒りがあったからオッサンが寄ってきてたのか。オッサンよ、すまん。笑