夢拾い日記

夢拾いしながら感じたこと、思いついたことを綴っています。

2024/0708 丸洗い修理その後

丸洗いした先日のラジカセですが、結果からお伝えしますと…直りませんでした!戻すときに配線がうまくできず、余計に壊れた感すらありまして。修理というよりは「とどめを刺した」と言ったほうが正しいかも知れません。

 

というわけで、スピーカーだったりネジだったり、使えそうな部品を取れるだけ取って処分することにしました。機械オンチなので使いこなせるかどうかは怪しいところですが、とりあえず未来の自分に期待しつつ。急に配線に興味を持つかも知れないし、機械に強くなることだって十分あるわけで。自分で自分の未来を閉ざさない。いまは興味がないだけ。笑

 

ちょっと言い訳になりますけども、あれは戻しにくいよー!って言いたくなるような作りでもありました。機械オンチの戯言だと思って聞いてください。

 

ネジを取ったら上下二つのパーツに大きく分かれるのですが、その間を繋ぐ配線があって、それを外さないと完全には分かれないので、外したわけです。で、シャワーで水洗いからの、天日干しにて乾燥を経まして、組み立てと相成りました。

 

が、外した配線を繋ごうにも、どうも短い。あまりに短すぎる。合わせたときにギリギリくらいの長さしかないので、届く距離まで二つのパーツを合わせると、今度は手が入らない。何度かやったけども、こりゃ手がペラペラか、指がおそろしく細長い人じゃないとムリ、ってな具合で。ピンセットを探したけども使えそうなものはなく、仕方なく割り箸でやってみることに。料理人やしね。

 

しかし「料理はできても機械はできぬ」というわけで、案の定うまくいかず、むしろ配線の先がボロボロになってしまったという顛末。もうあの頃には戻れない。やれるだけやったし悔いはない、なんて言いながら部品を取ってのお別れとなりました。

 

じつはこの結末も、シャワーで水を流してるときにうっすら浮かんでたし、そうなったらなったで面白い、なんて思ってたのがいけないのか。そうなのか。まあでも、あれは戻しにくかったよ。うん。ありゃ手は入らんし、分解するにしても特殊なドライバーがいるしで、修理を前提に作られてない気がしてしまった。最近の製品ってみんなこうなのかなぁ。昔分解した家電ってこんなじゃなかったような。

 

モヤモヤはしつつつも、もうラジカセは戻ってはこないので恨み節はこの辺で。安くて多機能でコンパクト、となるとこういう作りになるのかも知れないですね。とりあえず、もうソニーのは買わないと思う。笑

 

丸洗い修理法に関してはまだあきらめてないですよー!もうちょっとシンプルな家電で再挑戦。

 

写真は、部品になったラジカセ。

 

 

星になった少年、みたいな。笑

2024/0707 動画依存症と新しいごみ箱のかたち

今日は七夕ですね。ですが自分天邪鬼なので、みんなが集まるイベントは基本スルーです。ビジネス的な臭いもするし、みんなでわーっと集まるのも苦手やし。大勢でおなじ動きをすること自体に、どこか恐怖を感じるというか。これはもう性分やし、それで損してる部分もあるかも知れんけど、もうあきらめております。この生はこの役割なのでしょう。

 

素直に楽しめたらいいなとは思うし、うらやましさはあるけども、楽しめないものを無理に楽しもうとするのも変だし、まあこれで良いのです。まわりにはこういうイベントを上手に楽しんでる人がいるので、話を聞いたり、ときにはちょっと誘ってもらうくらいで。

 

今では自分のこの性質を分かってるからいいのだけど、小さい頃はみんなに馴染めないのはダメだと思って、無理して合わせてた。小さな子どもにとっては家と学校くらいしか社会がないわけで、そこで爪弾きにされることは死ぬのと同じくらいの恐怖があった。親に捨てられるかも、の恐怖もきっと同じ。

 

こんなだから、学校に馴染めない子どもたちの気持ちも分かるし、不登校の子が増えているのは当然かなと思ってる。不登校が以前に比べれば市民権を得てる(理解されてきてる)から、選択肢の一つになったわけで、それは子どもたちにとって救いかなと。ぼくが小学生の頃は、不登校みたいな子はあまりいなかったから、ズル休みしてなんとか誤魔化してた。ここぞで休んだりして。

 

それを許してくれる家庭で助かったなと。ぼくのこういう経験や考え方が、学校に行きたくない今の子どもたちに、何か役立てば良いなと思う。そう、七夕の願いはこれです。笑

 

書きはじめたら、自分でも意外な着地。でもこれが楽しくなってきてる。それでは今日も夢拾い中のメモから。

 

(メモ)観ることに飽きてきた

 

YouTubeInstagramTwitter(あえてそう呼ぶ)、まあ観てると楽しいわけです。最近はもっぱらギターの弾き方動画や作曲理論、お笑いに料理のレシピなんかを観ております。あ、あとパチスロを打ってる動画も観ちゃいますね。笑

 

そして、どれにも言えることですが「やった気になる」のが特徴でありまして。ギターは上手くなった気になるし、曲が作れるような気になる。料理は作った気になる。パチスロは行った気になるし、ついでに行きたくもなる。

 

気になる気になる木。でも、やった気になるけどやってはいない。経験した気になってるだけで、実はなにも身になっていないのであった。

 

動画を保存してるだけで、できる気になってるけど、いざやってみると全然できないし、そもそもやってみることも少ない。なのに、ただただ動画を見てしまう。手の動かし方を勉強してるつもりが、手を止めてみてるだけ。いつ動くんやと。笑

 

そんなこんなで、見ることに飽きつつあるわけです。見てるだけの自分に、うんざりしはじめたのだろうか。この動画を観た人はこんなのも観てますよ、のアテンドが的確すぎて次々と観てしまうのだけど、最近は観終わったあとに変な空虚感がある。虚しさ。

 

ギターを上手に弾きたくて観てたはずなのに、ギターを弾かないのならそりゃ上手くならんわな。ってことで、観るのはそこそこにして、手を動かすよう心掛けております。動画依存症からの脱脚。もうね、みんな依存症に見える。笑

 

(メモ)黒くなったところは捨てていいところ

 

いつも掃除してた喫煙所が、改装工事のために一時閉鎖中。そこで吸ってた人たちは行き場がなくて、そのまま喫煙所の近くで吸ってるのが落ちてる吸い殻からもわかる。

 

面白いのは、その吸い殻は歩道が黒くなっているところに集まっていること。綺麗なところにはほとんどない。

 

自分たちで「ここは捨ててもいいところ」「黒くなったところが灰皿ゾーン」みたいに、決めて捨ててる気がする。暗黙の了解があるように見える。綺麗なところに捨てるのは気が引けるというのもありそうですけどね。

 

まともに灰皿を置いてても、そこに入ってない吸い殻が周りにたくさん落ちてたし、だったらいっそのこと、黒っぽく汚れたゾーンをそのままにしておいて、吸い殻を誘導するのはアリかなと最近よく考えるようになった。

 

灰皿でもごみ箱でも、「おっと、まじめには捨てないぜ」みたいな層は必ずいて、そういう人にはごみ箱に見えない、黒ずんだゾーンをあえて用意してあげるのが効果的なのではないかと思う。ゾーンとしてのごみ箱というか。真面目にやるばかりが能じゃない。

 

「ここにごみを捨てないで」の、その張り紙の下にごみが捨ててあったりすると、もう正攻法で伝わるフェーズは終わってて、そろそろ違うアプローチを考えた方がいいと感じてる。ごみを先に置いておいて、そこへ誘導する。彼らの習性を利用するくらいの狡猾さがあっても良いかと。

 

写真は、一時閉鎖中の喫煙所。工事はいつ始まるんや。笑

 

2024/0706 丸洗い修理法と親父の成仏

昔テレビで観たのをいまだに覚えているのだけど、どんな電化製品も水洗いして直してしまうおじいさんがおりまして。そんなことして大丈夫なのかと思うけど、おじいさん曰く、基板なんかが汚れているから、それを綺麗な水で洗い流せば直ると。で、天日干ししてちゃんと乾かせば問題ないとのこと。

 

もう20年くらいは経ってると思うけど、いまだにそれが残ってて、いつかやってみようと思ってたら、その機会が到来。ソニーのラジカセが故障したので、さっそく試してみることに。CDを読み込まなくなる不具合はラジカセあるあるだけども、まだ結構新しいのになんだかなぁとは思ってる。

 

保証期間を過ぎると故障する、いわゆる「ソニータイマー」だけども、都市伝説とはいえ、それをちょっと疑いたくもなる。笑

 

ネジを外してバラすのも、慣れてないからモタモタ。結構時間がかかったものの、なんとか半分に分解できました。機械に関してはほんと無知なので、戻せるのかという心配もありつつ。大事に使う、ありがとうの声かけをする、みたいな精神論だけで機械も乗り切ってきたというか、それでほとんど問題は起きてないので、それでいいのかも知れないけど。

 

そんな機械オンチのぼくでもできそうな分解丸洗い修理法。さっき風呂場でシャワーを流しながら、丸洗いしてきました。基板に指紋なんかがつかないよう気をつけながら、広げた新聞紙の上に逆さにして乾燥中。さてどうなることやら。戻せるのかという不安はつきまとう。

………

それでは今日も、夢拾い中のメモを元にぶつぶつ書いてみます。

 

(メモ)親父が成仏するために

 

いきなりの重いテーマ。笑

 

親父が成仏できてないから悩んでる、とかそういうのじゃないんだけども、メモにしたらこうなったというだけで。

 

10年以上前にガンで亡くなった父親は、アルコール依存症だったり、それで暴言を吐いたり、その他いろいろあって、あんまりというか全然好きじゃなかった。特に生きてる間は。亡くなってしばらくして、距離もできて、しんどかった色々が思い出に変わっていって、今ではそこまでの負の感情は無くなった。良いところもあったなと。

 

嫌いだった父親のようになりたくないと、反面教師的にお酒もタバコもやらなかった。(親父がほとんどやらなかったギャンブルはやってるけども笑)

 

そのほかにも、他人を責め立てるような物言いや、たとえ自分が間違ってても謝らないこと、理不尽なクレーム。その姿を見てて「嫌だなぁ」と子供心に思ったのを覚えてる。

 

なので「ああはなりたくない」そう気をつけながら、ここまで生きてきたわけです。そのおかげか、今ではそういう乱暴な物言いは少なく済んでるかなと。人間関係も比較的円滑に進んでる(と思っている)

 

反面教師どころかちょっと敵対するくらいの父親でしたが、その父親のおかげでぼくの人生が良くなっているとも考えられるわけで。もし親子というチーム単位で考えたなら、ぼくが良い人生を歩めば親父も報われるのかなと。それがメモにあった「親父が成仏する」の意味。

 

そう思ったら、過去にあった家庭内の嫌なこと、親父の嫌な部分が、自分にとっての糧になっていることに気がついて、なんだか肩の荷が降りたような感があります。心が軽くなった。

 

自分のDNAの半分を占める父親を否定しているのはやっぱりしんどいし、先人の智慧を借りるという点では障壁にもなってるとも思う。それが今回の気づきをきっかけに変わったかなと。

 

おかげで親父も成仏できた気がするし(自分の中の親父かも知れないけど)、ご先祖様からの流れをより一層感じるようになった。御加護というかね。

 

写真は、丸洗いして乾燥中のソニーのラジカセ。

 

2024/0705 夢拾い中のメモより

最近は、夢拾い中にふと思いついたことをメモしておりまして。ほんの一文程度なのだけど、それがあるだけで色々と思い巡らすことができるのです。考える切り口になると言いますか。

 

拾ってる最中は、ほんといろんなことが浮かんでは消え、いくらでも書きたいことあるわぁと思っているものの、帰ってきて思い返すと面白いくらいにまっさらで。あるときは、とあるテーマについて拾っている間じゅう一時間ほど考えていて、ある程度考えがまとまっているし、これなら思い出して書けばだいじょうぶだろうと思っていたら、案の定まっしろ。笑

 

お風呂で口ずさむオリジナルの鼻歌もそうだけど、こういうのって一体どこへ消えていくのでしょうね。宇宙を漂っているのだろうか。ちょっとでも違う曲を聞けば忘れてしまうし、すこし気を許せば消えていく、なんて儚い鼻歌よ。残らないからこそ魅力的なのかも知れないけど、残しておきたいのも人の心情ですな。

 

さして重要でないから消えていくのだろうし、また必要なときにはふと浮かぶだろうから、それはそれでいいのだけど、日記のテーマとしてはあると助かるなと。そう思って、一口メモを残すことにしたわけです。

 

(メモ)ヌメる、オシッコ臭くなる 駐車場も拾う

 

さっそく謎のメモからスタート。笑

 

夢拾いをしてていつも思うのは、ごみの集まるところはヌメッとしているなと。道路も空気も。それがひどくなってくるとオシッコ臭くなって、だんだんと誰も手入れしなくなる。そうなる前に、ちょこちょこ綺麗にするのが大事だなと思った。

 

ごみが集まるからヌメるのか、ヌメるからごみが集まるのか。卵が先かニワトリが先かみたいなのはあるけども、ヌメる前になんとかしたい。お風呂場とか洗面所とか、水回りも同じですね。

 

駐車場を拾ってると、オーナー気分を味わえるというか、管理している気になるのが楽しい。自分の持ち物だから大切にするけど、そうじゃなかったら知らんぷり。そんな所有の概念を超えていける感じがある。

 

(メモ)「見せるために」という価値観が、想像以上に入り込んでいる

 

ぼくの夢拾いの発信もそうだけど、見せるために写真を撮ってることが多くて、それがもう板についてる感じがある。外食のたびに写真を撮って、何か見つけると感じるより先に写真を撮ってる。SNS全盛の時代だから、と行ってしまえばそれまでなんだけど、ふと立ち止まると異様なことをしてる。自分も。

 

ギターにしろ歌にしろ、自分が楽しいからというより、「誰かに見せて称賛されたい」という動機でやってたところがあった。今も無くなったとは言えないし、完全に切り離すことは難しいのだけど、そういう欲を感じた時はあえて見せないようにしてる。自分の中だけにおいて、それに自分がどう反応するかを観察してる。発信しなくても楽しければ、それは「自分が楽しいから」と言えるかなと。

 

(メモ)お金を払うからコミットする

 

セッションやコーチングなんかを見てると(ぼくも習ってたことがありますが)、高額だから身になる、自己投資するからこそ結果が出る、みたいな考え方があって。確かにそういう部分はあるし、実際それで結果が出てる人もいるから否定はしないけども、それってお金を払った以上もったいないから、元を取りたいからやる部分が大きいような気がしてて、やりたいからやるという純粋さがお金で濁ってる感があります。

 

これを何度も続けると、お金を払うスタートになって、動機が損得にすり替わる危険アリ。これは次のメモにもつながる。

 

ひどくなると「お金を払った崇拝してる大先生の話は聞くけど、払ってない周囲の一般の人の話を聞かなくなる」なんてことになりかねない。信者の完成。

 

信者とは儲けと書くのですね。笑

 

(メモ)見返りがあるからやる→見返りがなければやめる

 

ごみ拾いという活動はとかく「徳を積む」とよく言われて、それでいいことがあるよなんて声をかけてもらえるのですが、なんか見返りを求めている話のように聞こえてしまう。声をかけてくれる人が応援の気持ちで言ってくれてるのは伝わるのだけど、徳を積むってそういう感じじゃないんだよなと思ってしまう。

 

どこまでも見返りの話になってしまって、自分にもそういう部分がないとは言い切れないけども、あらゆることが損得に侵されてるなと感じる。自分も含めて。

 

やる前にもう見返りを意識しているというか、効果が薄いならやらないみたいな。やりたいの気持ちはどこへいったのか?と思うことが自分にもあります。コスパ、タイパの考え方が、経験にまで入り込んできてる。

 

だからこそ、それを切り離すためにというか、損とか得とかどうでもいいわ、となるくらいまで続けてみたいのかも知れません。夢拾いというのを。圧倒的な時間と量をやることで、そんな自分のちっぽけな計算を超えたいと。

 

真面目な感じで今日は終わり。

 

写真は昨日撮った、お気に入りの一枚。

 

2024/0703 探し物はメガネ

昨日から行方不明になっていたメガネ。「ここまでは掛けてたはずだから」とか、「ここで外した可能性あるな」とか、自分の行動を思い出しながら捜索するも見つからず。

 

「まあもう一本あるからいいんやけど…」なんて言いながら、ほんの数秒後にはまた探してるわけで、全然いいと思ってない。探し物あるある。まあ、探し物はないんやけども。笑

 

で、最終手段としまして、教えてもらったおまじないをやってみる。それは「頭の上にものさしをのせて、探してるものを思い浮かべる」というおまじない。それで探し物が出てくるとのことです。ぼくが知らなかっただけで、結構ポピュラーなもののようで。

 

初めてやったときは、そのあと探し物が出てきたので、1/1の確率、100%の勝率を誇るおまじないであります。ついさっきやってみたところ、まさに今メガネが見つかりましたよ!ごみ箱の中から。笑

 

ベッドサイドのテーブルに置いてたのが、ちょうど落ちて入ったようで、気づかずにごみ出ししなくてよかったです。そう言えば過去にもメガネじゃないけど、ごみ箱に落ちてたものがあった気がする。ということは、落としやすいシステムゆえ、改善が必要なわけですな。小さなものはサイドテーブルには置かない、とか。

 

メガネと言えば、昔テレビを観たまま床で寝てる時に、メガネを外してすぐ横に置いてたことがあって。その後、起きてトイレに行こうとしたら、その存在に気が付かずメガネを踏む、という事件がありました。

 

「グシャッ…」というイヤ〜な音と感触とともに、フレームは曲がってしまったのですが、そのメガネがなんと、ポールスミスの高級フレームだったので、ショックもひとしおでした。初めて買ったくらいの、高級なメガネ。お気に入りのブランドやったし。この出来事は今でも鮮明に思い出せます(出さんでいいけど)

 

ショックを受けながらも、買ったメガネ屋さんへ行って事情を説明すると、保証期間内だったからか、なんと半額で新しいメガネが作れるとのこと。色違いにはなるものの、同じポールスミスのフレームで早速作ってもらうことに。

 

流石に同じ轍は踏まない、フレームは踏まないぞと思って、その日は帰ったのですが、人は同じ過ちを繰り返す生き物でして。そう、これはフラグなのでした。

 

その三日後、同じようにテレビを観たまま床で横になり、トイレに立ち上がったときにまた「グシャッ…」と。あーーーっ!!!と、漫画のごとき驚き、そして落胆。あのイヤ〜な音と足裏の感触は、一生忘れないでしょう。そんな経験から、自分が「気をつける」と口にしてる時には気をつける、ようになりました。自分のことを信用しない。笑

 

踏んだとき、とっさに足を上げる反応は、一本目よりかは早かったけども。成長してるけども、そこじゃない感。

 

さて、このとき作ってもらったポールスミスの2本のメガネ。フレームが細くて上だけに付いたスタイリッシュなものだったので、メガネを外した状態では余計に見えづらい。だから3本目は、黒ぶちメガネのような太いフレームのものに変えて、どうせ踏むことも考えて、リーズナブルなものを選びました。

 

それからというものメガネを踏むこともなく、3本目に作ったメガネは今も現役、10年くらいは使ってます。

 

で、そのメガネがなくなって、見つかった話でしたね。先のおまじないは、ものさしを乗せることで頭の中が一旦クリアになって、それで思い出しやすくなるのかなぁと思ってます。「ここにあるはず」みたいな、思い込みが外れるというか。

 

案外、同じような場所ばっかり探しちゃうんですよね。さっき散々探して見つかってないのに、また同じところを探してる。またこれも「自分は正しい」と思い込んでるからこその行動かなと。自分の記憶は正しいと。

 

それをリセットしてくれるのが、このおまじないなのかも知れません。あ、無くした「もの」のありかを「指し」てくれる、ということで「ものさし」なのか。そうか、ダジャレなのか。笑

 

「頭の上にものさしをのせて、探してるものを思い浮かべる」おまじない。お困りの際はぜひ一度、お試しください。

 

写真は、さっき見つかったメガネ。

 

2024/0702 洗濯が好き

久しぶりの晴れ間で、ここぞとばかりに洗濯をしました。部屋干しもできるけど、やっぱり臭いが気になるわけで。

 

今日はお天気に助けられましたが、梅雨時は雨が続いて部屋干しせざるを得ないこともある。そんな時は、洗濯物といっしょにクエン酸ティースプーン3杯くらい)と銅のタワシ(小さいの2つ)を入れるようにしたら、ずいぶん臭いが緩和されましたよ。雑菌の繁殖が抑えられるのでしょうかね。ちなみに、両方ともSNSからの情報です。笑

 

お金もほとんどかからないので、よかったらお試しくださいませ。

 

こういうライフハックや、あと健康法みたいなのって「お金がかからない」がポイントだなぁといつも思う。〇〇を食べるとからだに良いけど、その〇〇が高価なんじゃ続かない。良いものはある程度高いのは承知の上だけど、高すぎるものも結構多い気がする。健康になるのにお金が必要だとしたら、みんなが健康には慣れないわけで、本当に大事なものは無料、もしくはごく手に入りやすい価格である。というのが持論です。笑

 

なので、高価なものも一旦試してはみるけども、あえて手放しているところがあります。その〇〇がないと健康になれないのなら、不安ですから。

 

話は戻りまして、洗濯物を干すのが好きだったりします。どう干すか、Tシャツの色で並びを決めて遊んでる。白系、ネイビー系、その他で種類分け、もしくは白ネイビー、白ネイビーで交互に挟んでみたり。その日の気分によって楽しむ。キリムもそうだけど、色を並べるのが好きなのかも知れない。

 

あとはどう干したら乾きやすいか、どう干したら型崩れしないか、そういう実の部分を考えるのも楽しい。たたむのも、美しくたたむ、収納しやすくたたむ、選びやすくしまう。美と機能性を兼ね備えたもの、自分なりに洗練されたやり方を目指してるところがあります。だから、夢拾いも楽しく続けられているのかも知れません。掃除ほどクリエイティブなものはないですからね。

 

 

さて。そんな夢拾いを続ける上で、気をつけていることが一つありまして。それは「まず自分の部屋を綺麗にしてから」です。自分の部屋が汚いのに、街を綺麗にしてる場合じゃないだろとは思いますが、褒められたり、人の役に立ってる感を求めて、自分の部屋が後回しになりやすい。後回しどころか、ないがしろになってた過去があります。はじめて2〜3年目は特にそうでした。

 

これはボランティアの最大の落とし穴だと思っていて、犠牲と言えばまだ聞こえはいいですが、本人が良くてもその家族が一番犠牲になってる、みたいなパターンはよくあります。話でよく聞きました。人助けはいいけども、家庭はめちゃめちゃみたいな。

 

Twitterに投稿したもの↓)

 

 

人助けの罠というか、ある種お金や名声と同じくらいの引力があります。人を助けたいと思ったら、まずは自分から。自分のことができて、その余力で人の役に立つくらいで。家庭で問題があるなら、まずそれに全力を尽くす。そんなことを考えながら、自分の部屋を掃除してます。なので、部屋が荒れてきたら要注意、ですね。

 

さてさて、朝に干した洗濯物。そのままキリム教室に出かけたら、雨に降られてちょっと湿ってました。笑

 

その後室内で干してますが、ずっと部屋干ししてるよりかは幾分良さそうです。あんまり臭わない。

 

そういえば昔、羽毛布団を干したまま出かけて、台風のごときどしゃ降りで布団がびったびたなんてこともありました。その時の絶望感といったら…。あまりに酷いと、ひとは笑えてくるものだと知りました。笑

 

(その布団はその後、コインランドリーの大物洗いで洗濯・乾燥しまして、今も使ってます)

 

干したまま出かけるのはやめようと、この時あれほど心に誓ったのに、また繰り返してる。人間とは懲りないものですね。

 

あ、自分だけか。

2024/0701  バス停でおじいさんが倒れた話

今朝のことですが、投稿では長くなりそうだったのでこちらに書きます。

 

いつものコースも中盤、スーパーの前にあるバス停で60代後半くらいのおじいさんが、ちょうど目の前で倒れました。遠目に見てたら、突然フラッときてそのまま歩道で頭を打ちまして、隣にいたサラリーマン(40代くらい)が介抱しておりました。

 

ちょうどそこに通りがかったわけですが、先ほどのサラリーマンが119番に電話してくれてたので、ぼくはおじいさんの手を取りつつ、後頭部を支えながら待つことに。呼吸はある。「だいじょうぶですか?」電話しながらサラリーマンが声をかけると、おじいさんの目が開いた。朦朧とした感じだけど、意識はあるようで「会社に行かないと…」そう言って起きあがろうとする。

 

「まだ無理やて」「今救急車来るから」「ぼくも会社行かないかんから。ここでじっとしててな」そう言い残して、サラリーマンはバスに乗って行きました。なのでとりあえず、ぼくはおじいさんに付き添って救急車を待つことに。

 

なんとか立ち上がったおじいさんは再度「会社に行かないと…」と、もうバスに乗ろうとする。肩を貸すものの、歩ける感じではなく。「ひとまずそこに座りましょう」ぼくがそう言ってスーパーの壁を指差すも、そこまでも移動は難しい。すると、そこにスーパーの従業員さんが来てくれて、持ってきた車椅子にようやく腰掛けられたおじいさん。

 

「あとはだいじょうぶですよ」スーパーの方がそう言ってくれたので、お任せして夢拾い再開。ちょっと進んだところで、様子が気になって後ろを振り返るとなんと!さっきまで倒れてたおじいさんがバスに乗る姿が。結局バスに乗って会社に行ったのでしょう。

 

その後、遠目に見守ってたら、従業員さんも車椅子とともにスーパーへと戻っているようでした。その少しあと、そこにすれ違うようにサイレンを鳴らした救急車がやってきました。その時には、ぼくは現場からずいぶんと離れていたのだけど「救急車を呼んだ方、どちらにいらっしゃいますか?」の声がうっすらと聞こえる。

 

その後どうなったのかは分からないけど、赤いライトが点滅してたのは見えたから、救急車はしばらくそこにいたらしい。おそらくスーパーの方から説明を聞いたのち、戻っていったのだろうと想像する。

 

だれが悪いとか、どうすればよかったとか、なにか言いたいわけでもなくて、それぞれにベストを尽くしたのがチグハグになったかなぁと。おじいさんを無理に救急車に乗せるわけにも行かんしね。

 

話で聞くような「みんな見てるだけでだれも助けない」のではなく、周りの人は精一杯やったし、おじいさんも自分の意思で会社に行けたし。救急隊の方が徒労に終わって、申し訳ない気はするけど、今回は仕方なかったように思う。

 

ひとつ言えるのは、こんなことになっても会社に行こうとする、行かなきゃ行けない感じがすごいなと。倒れたおじいさんも、介抱したサラリーマンも。自分が会社に行ってない身で言うのもなんだけど、今日くらい休んでも、ちょっとくらい遅れてもいいのでは?と思ってしまう。でも自分が会社勤めをしてた頃を思い返すと、仕事を休む、もしくは遅れるのはダメだと思ってたから、無理して行く気も分からないでもない。

 

会社だって理由を説明すれば、休んだり遅れたりすることは当然了承してくれると思うけど、言いにくい空気はあったし、いちいち説明するのもめんどくさいわけで。だから無理して会社に行く、みたいな。

 

おじいさんが無事であることを祈りつつ、世の中の余裕の無さを感じつつ。社会のどこにも余裕が無くなってきて、システムエラーが増えてきてる印象。

 

そのずいぶん後、後ろからやってきた自転車に乗った会社員。ぼくの目線の先で、急に自転車を降りて、なにやら点検してる。再度乗るも、タイヤが空回りしてるらしい。一度は降りて自転車を押して歩いてたけど、途中で勢いをつけて再再度乗ってみてた。でも結果変わらず。

 

時計を気にしながら小さくなった背中で、自転車を押して歩いて行きました。その姿がまるで、歯車の狂いはじめた社会のように見えた。

 

写真は付近のバス停。