夢拾い日記

夢拾いしながら感じたこと、思いついたことを綴っています。

2024/0629 キリムから学ぶ人生

もうすぐ6月も終わりなんですね。もう一年の半分が過ぎようとしている今日このごろ、みなさまいかがお過ごしでしょうか?笑

 

去年の10月から製作しているキリム。100×60cmくらいの、これまで自己最大のものですが、いよいよ完成間近となってきました。キリムの進み具合を見ると、月日の経過を感じますね。お子さんのいる家庭もこんな感じなんだろうなと勝手に想像します。もっと大変かと思いますが。

 

製作中の大きなキリム。木枠から作っていて、そこに5mm幅で釘を打ち込んでます。で、たて糸をかけていくのですが、できる限りピンと張るために力いっぱい引っ張りながらかけていくので、結構大変です。かなり疲れるところですが、張り具合が出来を大きく左右するので、ここは踏ん張りどころ。

 

たて糸のテンションが弱いと、一本一本が左右にブレて、全体が歪みやすくなります。土台が大事と言いますが、キリムの土台はまさにここかなと。たて糸の張り具合。作業を想像してみるだけでもシンドイので、その重要さゆえの真剣さも相まって、まぁまぁ辛い作業と感じてる模様。その分、きちんと張れたときの喜びもひとしおで。

 

たて糸と並行してのデザイン決め。昔の大きなキリム(オールドキリム)から一部デザインをいただいて、自分なりに再構築、色決めをします。伝統的なモチーフはやっぱりカッコいいし、織りやすいし、想いが込められてる。それぞれのモチーフの意味を感じてると、先人と繫がるような気がして、また楽しい。自分がこうして織ってるのも先人たちのおかげだと、頭ではなく体感できる。

 

その感覚がフィードバックして、ギターでもブルースの先人たちのフレーズを聴くようになった。シンプルだけど味わい深くて、そして自分が好きなギタリストたちのソロにも使われているフレーズがたくさんある。先人たちのものを発展させてきたのが、ぼくの好きなハードロック、ヘヴィメタルだったわけで、源流を辿ることの大切さを知りました。

 

難しく聞こえるそれは、シンプルなフレーズの積み重ねから生まれていることを知ると、作り方も見えてくる。まだできてないけど。準備中。笑

 

話はキリムに戻りますが、デザインを決めたら図案に起こします。このモチーフはたて糸何本分で、どこから始めてどこで終わるのか。何段織るのか。それができたら、今度は張ってあるたて糸にそれをプロットしていく。水性ペンで目印をつけていく。書いてて、この作業も苦手そうです。ここを間違うと、これまた全体のデザインがおかしくなるので、重要なところゆえ。

 

苦手というか、その作業の重要度が分かってるからこそ、真剣に取り組むからそれで疲れる。だからあんまりやりたくないだけ、かもしれない。作曲でも同じ傾向あり。

 

ここまで来れば、あとの作業はだいぶ楽です。図案が間違ってないか確認しつつ、あとは手を動かすだけ。左右の端の歪みを気にしつつ、できるだけ真っ直ぐになるように調整しながら織っていく。この作業は好き。地道なのを淡々と続けるのが好きなのは、夢拾いも同じ。

 

途中、複雑なモチーフは試行錯誤が必要だけども、一度クリアすると、次が楽になるのは人生と似ている。あとはいかにキリムを織る時間が作れるか。やりたいこと、夢の達成のためにいかに時間を作れるかも、人生と似ている。キリムから学ぶ人生。

 

9ヶ月織ってきたキリムもいよいよ完成が近づいて、嬉しくもあり寂しくもあり。面白いのは、作ってる最中はあんなに大きく見えてたのが、完成間近の今は小さく感じるということ。木枠作ってた時には「こんなのできるのか?」と思ってたし、途中「もう今回で終わり!」と嫌になってた時もあり。でもまた次を織るのでしょう。

 

次回作。先生と話してたのは、今回のさらに倍のサイズ。どうなることやら。笑

 

なにが伝えたいわけでもなく書いてきましたが、そのおかげで自分をまた少し知れた気がします。お付き合いいただきありがとうございます。

 

写真はもうすぐ完成の大きなキリム。

 

2024/0626 教わるのは技術だけじゃなく

自分でもアホやなぁと思うけど、大して出来もしないのに、先生が教えてくれることに対してムッとすることがある。太極拳でも和太鼓でも。

おそらく「自分はできてる」と思ってるからこその反応だと思うけど、先生から見たら、まだまだ改善の余地があるわけで(あたりまえだけど)

上達のために教えてくれてる。

こうして書いてるとそれは分かってるつもりだけど、先生になにかを言われた瞬間にはムッとしてる。

そんな自分を見つめながら、それでも教えてもらった通りにやってみながら、技術だけじゃなく心も鍛錬していくしかないなと。

素直に教わること。

できてる人からしたら、あたりまえのことかも知れないし、

素直に聞けない自分が情けないけども、まだ「できてる」と思ってるから仕方ない。

できてない自分をしっかり認識できたなら、もっと上達する感じはあるから、そこも練習。

太極拳も和太鼓も、そしてキリムも。

技術だけじゃなく、教わる姿勢も、いま学んでいるところ。

………

写真は昨日の太極拳にて。

90才超えの方が3人もいて、みなさん元気(^^)

2024/0625 洗濯機を蹴ってた話

いまではものを大切にするキャラみたいになってますが、そういえばと思い出した、洗濯機を蹴ってた大学生の頃の話。

 

競馬が好きで、競馬に携わる仕事がしたくて、北海道の畜産大学に通ってた。結局、そっち方面には行かなかったのだけど、北海道まで行ったから諦めがついたという点では、大きなターニングポイントだった。

 

とかく可能性を広げる方にばかり気が向きがちだけど、狭まることの方がより大事かなと思う。道が絞られる。自分には向いてないと、納得した上で道を自ら閉ざす。そのおかげで、後悔なく今の道を歩めるわけで。納得してるからこそ、この足取りがしっかりしてくる。その話はまた書こうと思う。

 

さて、生まれも育ちも岐阜県岐阜市のぼくは、北海道で初めての一人暮らしをすることに。漠然と憧れもあったし、炊事掃除洗濯が得意だったので、一人暮らしが楽しみだったし、自信もあった。あったけど、実際やってみると思ってたより大変で、まず部屋のレイアウトを決めるところから一人だし、食材も買い出しに行かないと何もない。当然だけど。笑

 

それまでは実家で暮らしてて、家族がいたから、冷蔵庫を開けるといろんなものが入ってた。アイスだったりドリンクだったり。そんなのが当たり前だったから、大学から帰って冷蔵庫を開けた時に何もない!って驚くこともしばしば。寂しさもあったかな。プリンの取り合いみたいなのはあるけど、家族ってありがたいんやなぁとしみじみ思ったわけです。このプリン、ちょっとちょうだいと言える幸せ。

 

寂しさはありつつも、自由もあって、家ではタブーとされてること、実家でやったら怒られる(と思ってる)こともいくつかやってみてた。布団の上でポテチを食べる、寝ながら食べる、インスタントラーメンを一度に2個食べる、みたいなこと。食べることばっかりやな。笑

 

で、これがやってみると案外楽しくない。禁止されてたから憧れてただけで、その解放感からの幸せはほんの一瞬だった。消えること、泡のごとし。やりたいと憧れてるものの中に、禁止されてるから、単にそこからの自由に憧れているものがある。本当にやりたいことではないのに憧れてる「まやかしの夢」がある。それを知ったのでした。

 

インスタントラーメンを一度に2個食べるという夢。大好きな「サッポロ一番みそラーメン」を美味しくいただいた後、これまた我らがアイドル「焼きそばUFO」を食べてみることに。こりゃめっちゃ幸せやなぁと思いつつ、3分を待つ。で、食べてみると、これがなんとぜんぜん美味しくない。いつもと味が違う(違って感じる)期待があったから余計にマズいし、気持ち悪いし、で。

 

でも食べ切った。自分が憧れた夢が、まやかしだったことを味わうために。笑

 

そういえば、タイトルの洗濯機がぜんぜん出てこないので、この辺で話を戻しまして。洗濯機を使ったことがある人なら、一度は経験あるかと思うのですが、洗濯物が偏ってて、回るときガコンガコンなって、エラー音と共に中断する、みたいなのがあります。呼ばれて、ふたを開けて、偏りをなおすと晴れて洗濯再開するわけですね。

 

バスタオルだったりの大物を洗うときに、この偏りエラーがよく起こるわけですが、投入したものによっては、直しても直してもエラーで止まることがある。2回に分ければいいやんと今では思うけど、その当時は何度も呼ばれることにイラついて、洗濯機を蹴ってた。それでエラーが出なくなるわけでもないけど、偏りをなおしては、ちゃんとやれやって蹴ってた。若気の至り。

 

蹴られながらも、日々健気に働いてくれてた洗濯機ちゃん。でしたが、ある日、当たりどころが悪くて、ボディの真ん中あたりが凹んでしまったのです。蹴っておきながら直そうとしたのだけど、戻らない。仕方ないので、そのまま洗濯してみると、少量の洗濯でもガコンガコンするようになった。凹んだ部分が中のドラムに触るようになり、以前にも増してエラーが出るようになりました。

 

その後、洗濯機をどうしたか覚えてないけど、買い替えた記憶はないので、ちょっと分解して直したように思う。それからというもの、ものを大切に扱うようになったのでした。めでたし。

 

すっかり忘れてたけど、振り返ってみるとどうしようもないやつですね。ずっとものを大切にしてますみたいな顔してたけど、こういう経験を経て今があることを忘れないようにしよう。蹴っても、余計にエラーが出るだけだから。

 

「ものに当たるのが良くない」とか、そういう善悪の話というよりは、「ものにあたることで面倒なことになる」それを体験すれば、人はしなくなるのかなと。ぼくはこれに懲りてしなくなっただけ。笑

 

善悪よりも、経験の有無がひとを変える。

………

 

写真は朝のトイレ掃除で使ってる雑巾。

 

拾ったミニタオルだったのだけど、大事に使ってたら顔が出てきた。笑

 

2024/0623 「信じる」という言葉の危うさ

あのときとよく似ている。得も言われぬ寂しさ。

 

良かれと思ってやったことが、余計なことだった。良かれと思ってやったから、後悔はないのだけど、よく分からない。

 

嫌と言わないまでも、嫌そうな感じにしてもらえてたら分かりそうなものだけど、どうして好意的な感じにするのだろうか。

 

嫌そうにしてたけど、ぼくが気づかなかったという部分もあるのかも知れない。書きながらそう思った。

 

やたらと褒めてくる人、ぼくを尊敬してると言う人は苦手だ。やっぱりうまくいかない。ぼくのどこを見て、信用してくれてるのか分からないし、見えてるのはしょせん一部に過ぎないわけで。

 

手放しで尊敬できる気持ちが理解できない。信じてもらったところで、ぼく自身が自分のことを信じていない。

 

次の瞬間なにをするかわからない。カッとなって人を殴るかもしれないし、いきなり階段を転げ落ちるかもしれない。だから自分のことを常に疑って、監視してる。とくに最近は。

 

とある人のことを信じていないことで怒られた。なぜあの人を疑うのかと。おまえは疑い深いダメなやつだと。

 

でもこれは性分だとしか答えられないし、そもそも自分のことも信じてないのに、他人を信じられるのだろうか。信じるってなに?

 

信じることは、ぼくにはできない。信じてるかどうかは、ぼくにはどうにもできない。そう書いた方が正しいかもしれない。

 

信じるという言葉はあるし、一見すると動詞のようだから「する」かどうか、自分の意志で決められるように見えるけども、そうではないと思う。

 

あくまで「信じている」という状態を表す言葉であって、それは「不信がまったくない」という意味なだけ。一点の疑いもない状態。

 

「あなたを信じるよ」みたいに気軽に使われてるけども(不信がある状態)→(不信がない状態)単にその移動→を表す言葉なので、信じると言った時点で不信がある、つまり信じてないことになるのではないか。不信をスタートにしなければ、信じることはできないから。

 

屁理屈に聞こえるかも知れないけど、そこを突き詰めていくと、ぼくとしては「信じます」とは到底言えない。それは信じる気がないわけじゃなくて、信じるかどうかはぼくには決められない、ということ。

 

ぼくが疑ってる「だれか」がいて、ぼくができるのはその人を疑ってる自分を見つめることだけ。なにが怪しいと感じるのか。それが過去の経験から来てるのか、もしくは他人の評判に影響されてるだけなのか。

 

そうやって疑う自分をただ見ながら、その「だれか」と接する。接する中で、疑いが一つ、また一つと消えていくことはあるだろうし、そのときには「以前より信じてるかな」と思うだけ。

 

信じていないことを怒られても、ぼくにはどうしようもないし、それで嫌われても仕方ない。諦めてる。

 

その「だれか」の信じていない部分、疑わしい言動なんかは説明できるけど、それを信じてる人に言うと大抵は怒られる。

 

「あの人、言ってることとやってること違うよね」なんて伝えても、失礼なやつだと怒られる。だからあんまり言いたくはない。

 

失礼で結構だけど、ぼくからは言動が不一致してるように見えるだけだから、あなたが信じてるならそれでいいじゃない。説明してくれたら、ぼくの疑いが一つも晴れるかもしれないし。

 

ただ怒るってのはわからない。それって信じてると言うあなたの中にも、おなじように疑いがあるんじゃないだろうか。

 

そんな話をしてまた怒られる。どうやら煽っているように見えるらしい。だからぼくは基本、黙って疑うことにしてる。

 

してるけど、先の「ぼくのことを尊敬してくれてる人」には、そのまま伝えるようにしてた。特定の人にというよりは、そういう人がこれまで何人かいた。

 

それを開示することで、なにか気づくことがあるかも知れないから。怒られるリスクはあるけども、せっかく気に入ってくれてるのならと。でももうやらない。もううんざり。めんどくさい。

 

思ったことを話せないのなら、その関係はあまり意味がないように思うし、怒られないように話すようになったら終わり。タブーができた時点で、ぼくの中で深い関係は終わり、当たり障りのない付き合いへと移行する。

 

ちょっと疲れたので、交友関係を狭めたいといまは思っている。

 

 

こんな人なので、むやみやたらと信用しないでください。笑

2024/0622 源から離れていくこと

最近よく話していること。文章ではなかなか難しそうなのですが、ちょっと書いてみます。何部かに分かれるかも知れないし、書き切れずに途中で断念するやも知れません。いま考えていること。その膨大な広がりをスケッチするような、描くことでまた一歩と近づいていって、その都度、詳細を描き込むような、たぶんそんな感じになりそうです。小説家や画家なんかは、いつもこういうことしてるんでしょうね。すごい職業だなと思う。

 

さて、何を話しているかと言えば「源から離れていってる」ということ。これについて書こうとすると縛りになりそうなので、うっすらと頭の隅に置いておく。

 

ギターの話で恐縮ですが、エレキギターのあの歪んだ音というのは、アンプに繋ぐことで出ておりまして。きっと「マーシャル」なんてのを、一度は耳にしたことがあるはず。それです。笑

 

アコースティックギターと違って、エレキギターはアンプが無いと音が鳴りません(小さい生音は鳴ってる)。アンプに繋いで音を増幅して、それを飽和させることで歪むような仕組み。ロックな音と言えばこの歪みなわけで、自分にとって心地よい歪みを日々探しておるわけです。僕も含め、ギタリストはたぶんみんな。その中でマーシャルというメーカーのアンプが人気があって、名機と呼ばれるものがいくつもあります。

 

あのギタリストが使ってたマーシャルアンプ(以下マーシャル)を使って、あの名曲のあの音を再現する。そうやって自分好みの音へ近づいていくのですね。男のロマン。余談になりますが、ぼくはB'zばっかり聴いてたので、やっぱり松本さんの音が好き。そこからのマイケルシェンカーとゲイリームーア、レイヴォーンみたいな。

 

で、有名ギタリストが使ってるマーシャルなんてのは馬鹿デカイので、せいぜいスタジオで使うくらい。家ではそれを小さくしたものを使っておりまして。とはいえ、それでも音は結構デカイ。歪ませるにはある程度の音量が必要になるので、マンションなんかだと、そもそも歪ませることすら難しいわけです。

 

そこでできたのがモデリングアンプなるもので、実機の音を再現したものをヘッドホンで聴ける機械(マルチエフェクター)なのです。調整のつまみもちゃんとありますし、最近のものはほんと良い音がします。ようやく本題に近づいてきたぞ。がんばれ。

 

先のマーシャルの音を耳のプロが聴いて、それを忠実に再現する。つまみの目盛りやアンプの音を拾うマイクの位置によって変わる感じ。そのほか、ありとあらゆる膨大なパラメータを盛り込んで作ってあるのがモデリングアンプで、そのおかげでまるで実機を触っているかのように操作できるのですね。ありがたや。

 

ここがポイントで、あくまで「まるで実機を触っているかのような」であって、実機ではない。当たり前のことなんだけど、使っているうちに実機のような気がしてくる。マーシャルのようでマーシャルでない。

 

本物に限りなく近いとは言われてるものの、それが分かるのは作った人だったり、実機を使ったことのある人たちだけ。実機のマーシャルはデカイし重いしで、まぁとにかく不便なわけで、使ってる人は限られたごく一部の人だけ。となると、これから先さらに減っていくだろうから、本物を知る人も減っていく。

 

次の次の世代まで来たら、モデリングアンプしか残ってなくて「これがマーシャルの音らしいよ」「へー、そうなんだ」ってなっててもおかしくはない。実機がなくなって、知る人がいなくなったら、確認しようがない。

 

便利だから再現したものを使いがちだし、ぼくもバリバリ使ってるけど、そうなるとその再現元、源を忘れてしまう。知らないものに敬意もクソもないので、悪気はなくともかならず軽視するようになっていく。

 

重くてデカイマーシャルがあって、それを持って移動するのが大変だからとモデリングして、みんなが便利に使えるようになった。便利になっていくとき、その変遷に触れた人たちにありがたみはあっても、その便利なものを生まれたときから使っていたら、前の不便さを知らないからありがたみがないというか、ただ「そういうものです」って使うだけ。

 

昔のものを大切にしろ、みたいな老害的なことが言いたいわけじゃなくて、源から離れていくことは意識したいなと。いま使ってる便利な「それ」はマーシャルのようでマーシャルでないってこと。源があって、それを再現するために努力した人がいるということは忘れないようにしたい。かならず忘れていってしまうことだから。

 

麻婆豆腐の素だって、麻婆豆腐を料理として日本に広めた陳建民がいて、その味をブラッシュアップしてきた数多の料理人がいて、それを再現するメーカーがあって、はじめて手軽に家で食べられる。

 

もしその素しか知らなかったら、それがなくなったらもう麻婆豆腐は作れないけど、源を辿れば作り方は見えてくる。豆板醤だったり花山椒だったり。そういう意味でも、源を知っておくというのは大事かなと思うわけです。素と源でややこしいけども。笑

 

すべてにおいて根源があったこと。先人がやってきたおかげでいまがあること。その具体的なもの、一つ一つは忘れてしまっても、すべてに源があったことは意識しておきたい。そうすれば、傲慢にならず謙虚でいられるのかなと思っている。

 

自分だけで生んだものは何もなし。だけど、その自分がいなかったらこの世界もなし。偉くもなければ、ダメなやつでもない。ただそうである。

………

 

写真はうちのマーシャル。小さいながらも真空管アンプなのだ。

 

2024/0621 芸術まで使い捨てになるのだろうか

先日友人が教えてくれた「作曲してくれるAI」

 

アカウントの作成から使い方まで、簡単にレクチャーしてもらったのだけど、これがすごいのなんの。曲を付けたい詞を貼り付けて(日本語でOK)、イメージや曲のスタイルを指示すると、ものの数分でできちゃうという。生成AIで絵や画像が作れるのは知ってたけど、もう曲まで作れるとは驚き。

 

友人が曲をInstagramにアップしてて、まだAIが作ったとは知らなかったぼくは、その出来栄えに思わず「めっちゃいい!」とメッセージを送ったのでした。作詞と的確な指示があれば、そんな高クオリティな曲が出来てしまう。AI恐るべし。

 

たしかに作曲って理論というか、これまでの膨大なヒット曲で使われてるコード進行だったり節回しを組み合わせて、心地よい音楽を作るわけで、データの集積、分析みたいなところがある。だからAIの得意分野であって、驚くことでもないのかも知れない。

 

自分がギターで作る曲も、これまで聴いてきた曲の蓄積から生まれているのを感じるし、そういう意味では大差ないような気もする。ひとがやるか、AIがやるかの違いだけ。想いの有無はありそうですけどね。

 

まさに「だれでも作曲ができる」そんな時代になってきたわけだけど、この先どうなっていくのか、悲観的になるわけでもなく、ただ想像してみる。

 

YouTubeで検索してみると、すでにAIが作曲したものがいくつもアップされていて、そりゃすぐに簡単に作れるわけだから、その曲数はこれからもどんどんと増えていくだろうと思う。誰でも使えるから、おそらくユーザー数も増えていくのを加味すると、膨大な数の曲がネット上に溢れるのは想像に難くない。

 

それが良いか悪いかはさておき、AIで作ったオリジナル曲を聴いて欲しい、みんなから高評価を得たい人からすると、似たような生まれの曲が溢れている状態は好ましくはない。

 

絵でも写真でも文章でも、みんなからの賞賛を得たいがためにやってる人がネット上には多いと感じるし、そういう人たちにとっては褒められなきゃ意味がないわけで、AIオリジナル曲はすぐに飽和状態を迎えて、自分の曲を聴いてもらえないと感じるユーザーはすぐに離れそうな気がする。こんなにあったら聴いてもらうのは至難の業、だと思うから。

 

相当に散らかったあとで残るのは、自分で楽しむ人たちだけかなと。だれに聴いてもらいたいでもなく、演奏してて自分が楽しいかどうか。それは先の生成AIによる絵や画像も同じで、似たようなものが大量にあったらまぁ見ないよねって話で、自分が楽しめなかったら作っても捨てるだけになるんじゃないかと。芸術まで使い捨てになりそうな時代。

 

そもそも誰でも簡単にできるゆえに、みんなが作るようになったら、見て見てー!聴いて聴いてー!のクレクレ人ばかりになって、鑑賞者もごく少なくなるのではと思ってる。

 

何が言いたいかといえば「他者からの評価を求める人」にとって、この生成AIの時代は生きづらくなりそうだなと。だれかのイイねを求めてAIでなにかを作るのなら、とてもストレスフルな世界が待ってるように思う。

 

自分が楽しいからやってる。自分が満足してるかどうか。自分だけの納得。その感覚を持っていないと容易に流される、そんな時代になりそうな気がしてる。そしてその波も、これまで以上に大きそうな予感。

 

最後にフォローではないけども、生成AIによる作曲自体はとても楽しいです。歌詞のワンフレーズを入力して、AIが生み出したモチーフを膨らませて、人の手で作り上げることもできる。人間とAIとの共生。そんな可能性も大いに感じています。結局はどう使うか、かなと。

 

写真は AIで作ったはじめての曲。ジャケットまで生成してくれる。

 

2024/0620 ごみとの向き合い方

夢拾いの投稿と重複しますが、今朝のできごと、駅前の自販機まわりが荒れてたことについて書いてみようと思う。少しくわしく。

 

毎日ごみを拾ってる、四六時中ごみのことを考えているような人なので、書くことはいくらでもあるのだけど、多すぎて逆にまとまらないところがある。この日記の中で、何度もおなじことを書くかも知れませんが、それだけおなじことを日々感じているということで。それを知るためにも、ちょこちょこ書いてみたい。

 

さて、今朝の話。JRの駅前、コインパーキングの隅に自販機が3つありまして、その横にごみ箱もいくつかある。それが溢れて、入り切らなかったペットボトルと缶が自販機前のスペースに山積みになっておりました。写真を見てもらった方が良さそうですね。

 

 

昨日の夕方、買い出しに行った帰りに見かけて、明日の朝やろうと決めてたところ。で、迎えた今日の朝。もしかして綺麗になってたり、なんてほんの少し期待してたのだけど、それどころかちょっと成長してた。笑

 

元々やる気で来てるわけで、落胆もなければとくに怒りもなく。またこのパターンかという呆れは少しありつつも、とりあえず手を動かす。キャップを開けて飲み残しを捨てて、またキャップを戻す。そのとき、誰が飲んだか分からない口元を触るようで、ちょっと気持ち悪い。だいぶ慣れたけど。

 

混ざってるビニールの包みなんかも選り分けながら、用意してきた大きなごみ袋に入れる。口を縛って、ひとまず自販機の横へまとめておいた。とりあえず綺麗になったというか、散らかってたのがまとまったので、見た目には片付いた。こうしておくと、しばらくは荒れにくくはなる。

 

逆に、荒れたままにしておくとどんどん荒れていくのは、9年間の夢拾いで嫌というほど見てきました。それを最小限に食い止めるためにも、毎日夢拾いしてる、という面は大いにありそうです。

 

こんな駅前の、立地も良くて、利用者も多いコインパーキングが汚かったら嫌だし、訪れた人ががっかりするだろうから、ちょっとでも綺麗に、見えるところだけでも。

 

ごみが山積みになっていると、次の人もそれにならって上に積む。そのまた次の人も。それがルールかのように。まるで正しいことかのように。

 

ごみ箱に捨てたいけど、捨てられないから仕方ない。持ち歩きたくはないし、仕方ない。みんなこうしてるから大丈夫。ごみが多いとき、ここはこういうルールなんだろう。そして誰かが片付けてくれるだろう。自分は前の人にならっただけ。自分は悪くない。ここを管理してる人の問題なんじゃない?

 

あくまで想像だけど、片付けてるとそんな声が聞こえてくる。だれが悪いとか、だれの責任だとか、マナーの問題だとか、もうそんなので片付く話じゃないように思う。9年間やってきて、どうにもならなくなってきてるのを肌で感じてる。

 

ごみ箱も足りなければ、ペットボトルを気楽に買いすぎだとも思うし、それも値段が安すぎるからじゃないかと。そもそもSDGsを謳うのなら、メーカー側で作るのを減らせばいいのにとも思う。消費者のせいにしようとしてるだけで、本気ではないのでしょう。SDGsは所詮ポーズ、欺瞞だと感じる。

 

思っていることを書いてみた。こう書くと怒っているように思われがちですが、もうほとんど怒りはありません(たまにはあります笑)怒ったところで疲れるだけだから、続けるうちに小さく小さくなっていきました。

 

そのかわり「諦め(あきらめ)」のような感情が、今はあります。虚しさにも近いですね。諦めるというと悪く聞こえますが、諦めるとは「明らかに見究める」を語源とする説もあって、そっちの良さげな意味で。

 

自分にできることと、自分にはどうにもならないこと。それを明らかに見究める。

 

自分にできること。それが毎日の夢拾いであり、今朝のごみ箱整理というわけです。その先の、ごみ箱が荒れないようにする、ペットボトルを減らす、みたいなのは自分にはどうにもならないこと。あくまで「すぐには」どうにもならない、という感じですが。

 

先を考えたところでストレスになるだけなので、あまり考えません。目の前のごみを拾うだけ。それがぼくにとっての「諦める」ということ。人事を尽くして天命を待つ、のニュアンス。

 

もちろんできることはまだあると思いますが、無理せず、今のままを続けながら、増やせそうならやる。もしくはたまにやる。そんな感じでごみと向き合っています。

 

何を書いたかよく分からないけども、共感するところがあれば嬉しいです。

 

下の写真はアフター↓