夢拾い日記

夢拾いしながら感じたこと、思いついたことを綴っています。

2024/0620 ごみとの向き合い方

夢拾いの投稿と重複しますが、今朝のできごと、駅前の自販機まわりが荒れてたことについて書いてみようと思う。少しくわしく。

 

毎日ごみを拾ってる、四六時中ごみのことを考えているような人なので、書くことはいくらでもあるのだけど、多すぎて逆にまとまらないところがある。この日記の中で、何度もおなじことを書くかも知れませんが、それだけおなじことを日々感じているということで。それを知るためにも、ちょこちょこ書いてみたい。

 

さて、今朝の話。JRの駅前、コインパーキングの隅に自販機が3つありまして、その横にごみ箱もいくつかある。それが溢れて、入り切らなかったペットボトルと缶が自販機前のスペースに山積みになっておりました。写真を見てもらった方が良さそうですね。

 

 

昨日の夕方、買い出しに行った帰りに見かけて、明日の朝やろうと決めてたところ。で、迎えた今日の朝。もしかして綺麗になってたり、なんてほんの少し期待してたのだけど、それどころかちょっと成長してた。笑

 

元々やる気で来てるわけで、落胆もなければとくに怒りもなく。またこのパターンかという呆れは少しありつつも、とりあえず手を動かす。キャップを開けて飲み残しを捨てて、またキャップを戻す。そのとき、誰が飲んだか分からない口元を触るようで、ちょっと気持ち悪い。だいぶ慣れたけど。

 

混ざってるビニールの包みなんかも選り分けながら、用意してきた大きなごみ袋に入れる。口を縛って、ひとまず自販機の横へまとめておいた。とりあえず綺麗になったというか、散らかってたのがまとまったので、見た目には片付いた。こうしておくと、しばらくは荒れにくくはなる。

 

逆に、荒れたままにしておくとどんどん荒れていくのは、9年間の夢拾いで嫌というほど見てきました。それを最小限に食い止めるためにも、毎日夢拾いしてる、という面は大いにありそうです。

 

こんな駅前の、立地も良くて、利用者も多いコインパーキングが汚かったら嫌だし、訪れた人ががっかりするだろうから、ちょっとでも綺麗に、見えるところだけでも。

 

ごみが山積みになっていると、次の人もそれにならって上に積む。そのまた次の人も。それがルールかのように。まるで正しいことかのように。

 

ごみ箱に捨てたいけど、捨てられないから仕方ない。持ち歩きたくはないし、仕方ない。みんなこうしてるから大丈夫。ごみが多いとき、ここはこういうルールなんだろう。そして誰かが片付けてくれるだろう。自分は前の人にならっただけ。自分は悪くない。ここを管理してる人の問題なんじゃない?

 

あくまで想像だけど、片付けてるとそんな声が聞こえてくる。だれが悪いとか、だれの責任だとか、マナーの問題だとか、もうそんなので片付く話じゃないように思う。9年間やってきて、どうにもならなくなってきてるのを肌で感じてる。

 

ごみ箱も足りなければ、ペットボトルを気楽に買いすぎだとも思うし、それも値段が安すぎるからじゃないかと。そもそもSDGsを謳うのなら、メーカー側で作るのを減らせばいいのにとも思う。消費者のせいにしようとしてるだけで、本気ではないのでしょう。SDGsは所詮ポーズ、欺瞞だと感じる。

 

思っていることを書いてみた。こう書くと怒っているように思われがちですが、もうほとんど怒りはありません(たまにはあります笑)怒ったところで疲れるだけだから、続けるうちに小さく小さくなっていきました。

 

そのかわり「諦め(あきらめ)」のような感情が、今はあります。虚しさにも近いですね。諦めるというと悪く聞こえますが、諦めるとは「明らかに見究める」を語源とする説もあって、そっちの良さげな意味で。

 

自分にできることと、自分にはどうにもならないこと。それを明らかに見究める。

 

自分にできること。それが毎日の夢拾いであり、今朝のごみ箱整理というわけです。その先の、ごみ箱が荒れないようにする、ペットボトルを減らす、みたいなのは自分にはどうにもならないこと。あくまで「すぐには」どうにもならない、という感じですが。

 

先を考えたところでストレスになるだけなので、あまり考えません。目の前のごみを拾うだけ。それがぼくにとっての「諦める」ということ。人事を尽くして天命を待つ、のニュアンス。

 

もちろんできることはまだあると思いますが、無理せず、今のままを続けながら、増やせそうならやる。もしくはたまにやる。そんな感じでごみと向き合っています。

 

何を書いたかよく分からないけども、共感するところがあれば嬉しいです。

 

下の写真はアフター↓