キリムを織ってると「人生もこうだよな」と感じるような気付きが多々ある。間違えたとき、それを解くのは織るより時間がかかる。だから一段ずつ、場合によっては一針ずつ、確かめながら慎重に進めるほうが結果的に早い。二年続けてきてそう考えている、というよりは「慎重に」がからだに染み付いてるような状態なので、はじめた頃に比べると、織り間違えることは格段に減った。
(と言いながら、昨日は立て続けに三回間違いまして...まぁ疲れてたのかなと。でもそのおかげで、この記事を書くことができたわけですな。)
慎重にやるのにも慣れがあって、確かめながら織るのも上達してるから、慎重にやってるから進みが遅いというわけでもなく。丁寧かつスピーディに織れるようになっていってる。だから余計に楽しくて、どんどん進む。出来上がっていくのを見ると嬉しくて、また織りたくなる。良いループに入ったようです。
一段織るときの行きと帰り、その糸目は上下で互い違い(交互)になるわけだけど、それが同じになってるということはどこかで間違ってる。それを素早く見つけてすぐに戻れば、作業のロスは最小限で済む。全体をぼんやり眺めながら、織ってる手元のその一段も見つめつつ、違和感がないかを常に感じてる。
夢拾いのとき、全体をぼんやり見ながら、その景色の中に白いもの、シルバーのもの、透明でうっすら光るもの、そんな景色から浮いた物を感じてるのと似ているかもしれない。目処をつけたところへ近づいていって、それが何かをよく見て拾う。白い吸いがらにシルバーの空き缶、透明なのはパンの包み。
マクロとミクロ、視点の切り替え。それがキリムにも役立っているのかもしれない。
キリムは生物のつながりを教えてくれたりもする。あるモチーフが三つ横に並んでる。ひとつずつ進めて完成を見たいところだけど、横に並んでる以上、同時に進める必要があって。一人で先に行こうと思ったところで、結局は全体が進まなければ完成はしない。反対に、みんなが進んだときには自分も進んでる、とも言える。
三つのモチーフが三人のひと、でもいいし、動物、植物、地球みたいな見方もできる。ひとは一人では生きていけないと言葉にするよりも、そんなことを言うまでもなく「そうである」のを実感させてくれるのがキリムなのです。いつもそう思いながら織ってる。
「夢を叶えるなら、手を動かすこと」みたいなのも教わった。織る前にはデザインを描いて、ざっくりと設計図を書いて、色を決める。それが夢を描くことだとすれば、あとはそのように織るだけ。当たり前のことだけど、織らなきゃ進まない。手を動かさなければ、描いた夢は完成しない。
よく言われる割には、あまり分かっていなかったこと。言い訳しながら手が止まってるから、むしろ全然分かってなかったのかも。それが織ってると腑に落ちるというか、そりゃそうだろって目に見える。
面白いのは、絵を決めると、あとは自動で織ってる感じがすること。設計図の通りにただ手を動かすだけ。そこに自分の意志はほとんどなくて、何かに織らされている、そんな感覚。ヴィジョンを描いたら、あとはその通りに手を動かす。
途中でデザインや色を変えることも少しはできるけど、大まかな流れは決まってる。大きな変更は難しい。だからこそヴィジョンが大事、なんだと思う。慎重に、こと細かに描く。
いろいろ書きましたが、結局はキリムとの相性がいいから続いてる、それだけのことのような気がする。付き合いが長くなることで、深く知ることができるし、そこで気がつくことも増える。この先も何を教えてもらえるのか、楽しみに織っていこうと思う。
下の写真は昨日の最新版。