2024/0530 目の前の世界なら変えられる
今日は5/30、ゴミ0(ゼロ)の日ですね。小学校のときゴミ0運動というのがあって、毎週月曜にみんなでごみ拾いをしてた。
それくらいの男子って掃除せずに遊んでばかりの子が多かったけど、ぼくはごみ拾いがすごく楽しくて真剣にやってた記憶があって。
ほんとうに好きなこと、やりたいことは幼少期にヒントがある、なんてよく言われるけどその通りだなと思う。ぼくにとって夢拾いは遊び。歌をうたう、ギターを弾く、キリムを織る、ぜんぶおなじ。
なんで夢拾いを続けてるかといえば、その「楽しいから」という理由ともうひとつ、「綺麗にしてる実感があるから」なのかなと思う。
以前、ごみが大量に流れついていた川の河口付近を拾ったことがあって、そのときはあまりの量にどうしていいのか、やって意味があるのか、そんな無力感に苛まれたわけです。
とりあえず2時間くらい手を動かして、友人と2人で10袋以上拾ったかと思うのですが、それでもすべては綺麗にならない。というか残ってるごみの方が多い。
そういう意味ではあんまり状況は変わってないのかも知れないけど、でも大きく変わったことは「自分たちはこれだけやった」という手ごたえ。その手ごたえ分はかならず減ってるわけで、大量のごみを前に呆然と立ち尽くしていた無力感は消えていました。
無力感って、人間の悩みの中でも大きなものというか、どうしようもないってなると死にたくなる感じが自分にはあります。でも手ごたえがあれば生きていける。
それを感じたいから夢拾いをやってるのかなと今朝は思いました。ひとの役に立つ、まずその前に自分の役に立つから、というか今日の生きる意味として。
わたしの目の前の世界は変えられる、その実感のために。